ドストエフスキーの生涯

 フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーは、1821年、モスクワに生まれた。父は軍医であった。
 兄弟のうち、すぐ上の兄ミハイルとはとりわけ仲が良かった。作家がこの兄を慕うと気持ちは、熱愛する恋人に対する感情にも似ていた。恋人なら時間で熱が醒めるが、兄の死後もそれは終生変わらなかった。
 ペテルブルグの工兵学校に入学した。幼いときから文学が好きで、この学校における勉強やその職業は全く関心がもてなかった。

 在学中に父親が田舎の領地で百姓に惨殺される事件があった。厳格な父は恨みを買っていたようだが、この「殺害された」という事実は、長く伏せられていた。記録上も急死扱い。

 卒業後、24歳で書いた『貧しき人々』が当時の高名なベリンスキー等によって激賞され、ドストエフスキーは一夜にして有名になった。ただしその後の諸短編は評価されなかった。
 社会主義グループに接近し、他の者と共に逮捕され、死刑の宣告を受ける。直前とりやめになり、シベリア流刑となる。

4年間の刑と軍役の後、作家活動を再開する。またシベリヤ抑留中に友人の妻に恋し、夫が死亡後結婚する。この最初の妻マリヤには彼女が亡くなるまで、また義理の息子には生涯、苦労させられた。

 小説家としては、シベリヤ流刑体験を元にした『死の家の記録』は高い評価を得た。兄と雑誌『時代』を発刊する。またマリヤの死亡後、若い筆記者アンナと再婚する。
 長篇小説『罪と罰』はめっぽう評判になり、作家としての評価が上がった。
 借金の債権者を逃れ、妻と共にヨーロッパへ療養も兼ねた長期旅行をする。この間、『白痴』を執筆する。『悪霊』も手がけだすが、ロシヤにいないと執筆できないとして帰国する。

 兄のミハイルが死亡し、彼の借金と遺族の面倒をみる必要がでてくる。
 生涯、借金等カネに悩まされ、そのために小説を書く際、前金を要求するのが常であった。

 文豪にとって生涯最高の名誉のときは、死の前年、プーシキン記念式典における演説をした際であろう。このときの聴衆の熱狂ぶりは、妻アンナに書いた手紙によって、また他の文筆家の文章によって伺える。
 ただし文豪は畢生の大作『カラマーゾフの兄弟』第1部は完成させたものの、第2部に手をつけることなく、また幼い子供たちを心配しながら60歳に満たない生涯を閉じた(1881年)。葬式の際は数万人の会葬者が参加したほど盛大なものであった。

 文豪は生前より有名であったものの、死後その名声は更に高まり、現在では19世紀ロシヤ、否、世界文学を代表する文学者として尊敬されており、また特にわが国では広く読まれている。

年譜

1821年 10月30日、モスクワ、マリヤ施療院にて生まれる。
父ミハイル・アンドレーヴィチ、母マリヤ・フョードロヴナの次男。両親は1819年結婚。
父は同病院の医師。資格は軍医。兄ミハイルは前年1820年生。
妹弟としてワルワーラ、アンドレイ、ヴェーラ、ニコライ、アレクサンドラ。
1822年1歳妹ワルワーラ生。
1826年5歳弟アンドレイ生。彼の書いた回想は作家の幼少年期を知る資料として貴重。
1829年8歳妹ヴェーラ生。彼女の長女がソフィヤ(ソーニャ)・イワーノワ。
作家が創作に関わる重要な手紙を多く書いた姪である。
1831年10歳 父がトゥーラ県ダロヴォーエ、チェルマーシャに領地を購入。以後夏をここで過ごす。
『百姓マレイ』の経験。シラーの『群盗』の俳優の演技に感動。弟ニコライ生。
1833年12歳 兄とドラシューソフの塾に通う。寄宿中学入学準備のため。
1834年13歳 兄とモスクワの寄宿中学校に入学。
1835年14歳妹アレクサンドラ生。
1836年15歳教師の感化によりプーシキンに熱中。母の肺結核悪化。
1837年16歳 1月、プーシキンの死に衝撃。2月、母結核で死去。
5月、兄とペテルブルクのコストマーロフの予備校に入る。工科学校入学準備のため。
7月、父、退職し田舎の領地へ移る。
1838年17歳 1月、陸軍工兵士官学校(工科学校)入学。兄は身体検査で不合格。
6月、兄はレヴェリの工兵団に入るため出発。文学に熱中。10月、進級試験落第。
1839年18歳 6月、父農奴に殺害さる。10代半ばの少女を妊娠させるなど恨みを買っていた。
1840年19歳 11月、下士官に任命さる。翌月士官候補生と改称。
1841年20歳 1月、現存しない劇『マリヤ・シュチュアルト』『ボリス・ゴドゥノフ』を兄の壮行会で朗読。
8月、野戦工兵少尉補に昇進。
1842年21歳 1月、兄結婚。8月、少尉に昇進。
1843年22歳 8月工兵士官学校を卒業。ペテルブルク工兵局製図課勤務。
バルザック『ウジェニー・グランデ』の翻訳開始。
1844年23歳 6-7月『ウジェニー・グランデ』の翻訳(抄訳)発表。9月、『貧しき人々』執筆開始。
10月、中尉に昇進、退官。
1845年24歳 5月『貧しき人々』がネクラーソフ、ベリンスキー等に激賞される。
『分身』執筆。11月、ツルゲーネフを知る。パナーエフ家のサロンに参加。
1846年25歳 1月『貧しき人々』を「ペテルブルグ文集」に発表。春、ペトラシェフスキーを知る。
2月『分身』、10月『プロハルチン氏』発表。
1847年26歳 年初ベリンスキーと不仲になる。ペトラシェフスキーの会合に参加。
1月『九通の手紙にもられた小説』、4-6月 『ペテルブルグ年代記』、10-11月『家主の妻』発表。
1848年27歳 1月『他人の妻』、2月『弱い心』、『ポルズンコフ』、4月 『世なれた男の話』、
9月『クリスマス・ツリーと結婚式』、12月『白夜』、『嫉妬ぶかい夫』
1849年28歳 4月15日、ペトラシェフスキーの会合でベリンスキーのゴーゴリ宛書簡の朗読。
4月23日逮捕、ペトロパブロフスク要塞に監禁。5月予審取調べ。9月公判開始。
11月死刑判決。12月22日セミョーノフ練兵場で死刑直前に恩赦。
12月24日、シベリヤへ向け出発。
1-2月、5月『ネートチカ・ネズワーノワ』発表。『小英雄』を監禁中に執筆。
1850年29歳 1月9日、トボリスク到着。十二月党員の妻たちから福音書を貰う。
1月23日、オムスク監獄に到着。1854年2月まで服役。
1854年33歳 3月、セミパラチンスク守備隊に編入。イサーエフとその妻マリヤを知る。彼女に恋愛感情抱く。
1855年34歳 3月、イサーエフ一家クズネツクへ移転。8月イサーエフ死去。『死の家の記録』執筆開始。
1856年35歳 兵役免除、出版許可の請願書提出。10月、下士官へ昇進。
1857年36歳 2月、クズネツクでマリヤ・ドミートリエヴナ・イサーエワと結婚。
4月士族の称号回復。8月『小英雄』発表。
1858年37歳 1月、軍務免除とモスクワ居住の請願書提出。
1859年38歳 3月少尉として免官。トヴェーリ居住を命じられ7月出発。12月ペテルブルクへ戻る。
3月『伯父様の夢』、11-12月『ステパンチコヴォ村とその住人』
1860年39歳 9月『死の家の記録』を「ロシヤ世界」に発表開始。
1861年40歳 1月、兄ミハイルとの共同編集「時代」発刊。1-7月『虐げられた人々』同誌に発表。
また『死の家の記録』も同誌に転載して発表。
1862年41歳 6月-9月、初の外国旅行、パリ、ロンドン、ドイツ、スイス、イタリア訪問。
7月、ロンドンでゲルツェン及びバクーニンと会う。年末アポーリナリヤ・スースロワと交際。
1-11月『死の家の記録』の第2部発表。ツルゲーネフの『父と子』絶賛。(書簡現存せず)
1863年42歳 5月、ストラーホフのポーランド問題を扱った論文により「時代」誌発禁。
8月-10月、第2回国外旅行。スースロワとの関係が続く。9月、バーデンバーデンで賭博。
ツルゲーネフに会い、彼が「時代」のために書いた『幻』について釈明。
1864年43歳 3月、雑誌「世紀」を発刊。4月15日、妻マリヤ死亡。
7月10日、兄ミハイル死亡。巨額の負債が作家にのしかかる。
1865年44歳 4月、アンナ・クルコフスカヤに求婚、拒絶さる。
彼女は有名な数学者ソフィヤ・コワレフスカヤ(クルコフスカヤは旧姓)の姉。
6月、資金難により「世紀」廃刊。7月-10月、国外旅行。ヴィスバーデンで賭博。
9月、『罪と罰』の構想をカトコフに売り込む。『鰐』の原本、発表。
出版人ステロフスキーと契約、版権売り渡し、3巻全集を翌年にかけて出版。
また新作長篇を66年中に執筆を約束、違約すれば将来の重版権を失う。
1866年45歳 10月、速記者アンナ・スニートキナに『賭博者』を口述。
11月結婚申し込む。1-12月『罪と罰』を発表。
1867年46歳 2月、アンナ・スニートキナと結婚。4月、国外旅行へ出る(1871年まで)。
ドレスデンで絵画鑑賞。夏にバーデンでツルゲーネフと衝突。
ジュネーブへ。バクーニンらによる平和大会を傍聴。『白痴』執筆開始。
1868年47歳 2月長女ソフィヤ誕生(5月死亡)。5月ヴェーヴェ、9月ミラノ、11月フィレンツェ。
1-12月『白痴』発表。
1869年48歳 ボローニャ、ヴェネティア、プラハ経由で8月、ドレスデン到着。
9月、次女リュボフィ誕生。長じて仏へ渡りエーメと改名、父の回想を書いた。
1870年49歳 『悪霊』執筆開始。1-2月『永遠の夫』
1871年50歳 7月帰国、長男フョードル誕生。1-11月『悪霊』発表。
1872年51歳 4-5月、ペロフが肖像画を描く。5-9月、スタラーヤ・ルッサ滞在。
12月、雑誌「市民」編集長就任。11-12月『悪霊』第3篇発表。
1873年52歳 1月「市民」創刊、『作家の日記』を同誌に掲載。
1874年53歳 4月、「市民」編集長辞任。5-6月、スタラーヤ・ルッサに住む。6-7月、エムスに。
1875年54歳 5-7月、エムス。8月、次男アレクセイ誕生。9月、ペテルブルクへ戻る。
雑誌「作家の日記」刊行準備。1-12月『未成年』発表。
1876年55歳 1月より雑誌「作家の日記」刊行開始。
1877年56歳 7月、ダロヴォーエ村訪問。12月、アカデミー通信会員に選出。
1878年57歳 5月、癲癇で次男アレクセイ急死。カラマーゾフでゾシマ長老に語る子供を亡くした話参照。
1879年58歳 7-9月、エムスで療養。1-11月『カラマーゾフの兄弟』発表。
1880年59歳 5月、プーシキン記念祭に参加、6月8日、講演。8月より「作家の日記」復刊。
1-11月、残りの『カラマーゾフの兄弟』発表。
1881年59歳 1月26日、出血、意識を失う。1月28日死去。2月1日アレクサンドル・ネフスキー寺院で葬儀。

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