1821年 | 10月30日、モスクワ、マリヤ施療院にて生まれる。 父ミハイル・アンドレーヴィチ、母マリヤ・フョードロヴナの次男。両親は1819年結婚。 父は同病院の医師。資格は軍医。兄ミハイルは前年1820年生。 妹弟としてワルワーラ、アンドレイ、ヴェーラ、ニコライ、アレクサンドラ。 | |
1822年 | 1歳 | 妹ワルワーラ生。 |
1826年 | 5歳 | 弟アンドレイ生。彼の書いた回想は作家の幼少年期を知る資料として貴重。 |
1829年 | 8歳 | 妹ヴェーラ生。彼女の長女がソフィヤ(ソーニャ)・イワーノワ。 作家が創作に関わる重要な手紙を多く書いた姪である。 |
1831年 | 10歳 | 父がトゥーラ県ダロヴォーエ、チェルマーシャに領地を購入。以後夏をここで過ごす。 『百姓マレイ』の経験。シラーの『群盗』の俳優の演技に感動。弟ニコライ生。 |
1833年 | 12歳 | 兄とドラシューソフの塾に通う。寄宿中学入学準備のため。 |
1834年 | 13歳 | 兄とモスクワの寄宿中学校に入学。 |
1835年 | 14歳 | 妹アレクサンドラ生。 |
1836年 | 15歳 | 教師の感化によりプーシキンに熱中。母の肺結核悪化。 |
1837年 | 16歳 | 1月、プーシキンの死に衝撃。2月、母結核で死去。 5月、兄とペテルブルクのコストマーロフの予備校に入る。工科学校入学準備のため。 7月、父、退職し田舎の領地へ移る。 |
1838年 | 17歳 | 1月、陸軍工兵士官学校(工科学校)入学。兄は身体検査で不合格。 6月、兄はレヴェリの工兵団に入るため出発。文学に熱中。10月、進級試験落第。 |
1839年 | 18歳 | 6月、父農奴に殺害さる。10代半ばの少女を妊娠させるなど恨みを買っていた。 |
1840年 | 19歳 | 11月、下士官に任命さる。翌月士官候補生と改称。 |
1841年 | 20歳 | 1月、現存しない劇『マリヤ・シュチュアルト』『ボリス・ゴドゥノフ』を兄の壮行会で朗読。 8月、野戦工兵少尉補に昇進。 |
1842年 | 21歳 | 1月、兄結婚。8月、少尉に昇進。 |
1843年 | 22歳 | 8月工兵士官学校を卒業。ペテルブルク工兵局製図課勤務。 バルザック『ウジェニー・グランデ』の翻訳開始。 |
1844年 | 23歳 | 6-7月『ウジェニー・グランデ』の翻訳(抄訳)発表。9月、『貧しき人々』執筆開始。 10月、中尉に昇進、退官。 |
1845年 | 24歳 | 5月『貧しき人々』がネクラーソフ、ベリンスキー等に激賞される。 『分身』執筆。11月、ツルゲーネフを知る。パナーエフ家のサロンに参加。 |
1846年 | 25歳 | 1月『貧しき人々』を「ペテルブルグ文集」に発表。春、ペトラシェフスキーを知る。 2月『分身』、10月『プロハルチン氏』発表。 |
1847年 | 26歳 | 年初ベリンスキーと不仲になる。ペトラシェフスキーの会合に参加。 1月『九通の手紙にもられた小説』、4-6月 『ペテルブルグ年代記』、10-11月『家主の妻』発表。 |
1848年 | 27歳 | 1月『他人の妻』、2月『弱い心』、『ポルズンコフ』、4月 『世なれた男の話』、 9月『クリスマス・ツリーと結婚式』、12月『白夜』、『嫉妬ぶかい夫』 |
1849年 | 28歳 | 4月15日、ペトラシェフスキーの会合でベリンスキーのゴーゴリ宛書簡の朗読。 4月23日逮捕、ペトロパブロフスク要塞に監禁。5月予審取調べ。9月公判開始。 11月死刑判決。12月22日セミョーノフ練兵場で死刑直前に恩赦。 12月24日、シベリヤへ向け出発。 1-2月、5月『ネートチカ・ネズワーノワ』発表。『小英雄』を監禁中に執筆。 |
1850年 | 29歳 | 1月9日、トボリスク到着。十二月党員の妻たちから福音書を貰う。 1月23日、オムスク監獄に到着。1854年2月まで服役。 |
1854年 | 33歳 | 3月、セミパラチンスク守備隊に編入。イサーエフとその妻マリヤを知る。彼女に恋愛感情抱く。 |
1855年 | 34歳 | 3月、イサーエフ一家クズネツクへ移転。8月イサーエフ死去。『死の家の記録』執筆開始。 |
1856年 | 35歳 | 兵役免除、出版許可の請願書提出。10月、下士官へ昇進。 |
1857年 | 36歳 | 2月、クズネツクでマリヤ・ドミートリエヴナ・イサーエワと結婚。 4月士族の称号回復。8月『小英雄』発表。 |
1858年 | 37歳 | 1月、軍務免除とモスクワ居住の請願書提出。 |
1859年 | 38歳 | 3月少尉として免官。トヴェーリ居住を命じられ7月出発。12月ペテルブルクへ戻る。 3月『伯父様の夢』、11-12月『ステパンチコヴォ村とその住人』 |
1860年 | 39歳 | 9月『死の家の記録』を「ロシヤ世界」に発表開始。 |
1861年 | 40歳 | 1月、兄ミハイルとの共同編集「時代」発刊。1-7月『虐げられた人々』同誌に発表。 また『死の家の記録』も同誌に転載して発表。 |
1862年 | 41歳 | 6月-9月、初の外国旅行、パリ、ロンドン、ドイツ、スイス、イタリア訪問。 7月、ロンドンでゲルツェン及びバクーニンと会う。年末アポーリナリヤ・スースロワと交際。 1-11月『死の家の記録』の第2部発表。ツルゲーネフの『父と子』絶賛。(書簡現存せず) |
1863年 | 42歳 | 5月、ストラーホフのポーランド問題を扱った論文により「時代」誌発禁。 8月-10月、第2回国外旅行。スースロワとの関係が続く。9月、バーデンバーデンで賭博。 ツルゲーネフに会い、彼が「時代」のために書いた『幻』について釈明。 |
1864年 | 43歳 | 3月、雑誌「世紀」を発刊。4月15日、妻マリヤ死亡。 7月10日、兄ミハイル死亡。巨額の負債が作家にのしかかる。 |
1865年 | 44歳 | 4月、アンナ・クルコフスカヤに求婚、拒絶さる。 彼女は有名な数学者ソフィヤ・コワレフスカヤ(クルコフスカヤは旧姓)の姉。 6月、資金難により「世紀」廃刊。7月-10月、国外旅行。ヴィスバーデンで賭博。 9月、『罪と罰』の構想をカトコフに売り込む。『鰐』の原本、発表。 出版人ステロフスキーと契約、版権売り渡し、3巻全集を翌年にかけて出版。 また新作長篇を66年中に執筆を約束、違約すれば将来の重版権を失う。 |
1866年 | 45歳 | 10月、速記者アンナ・スニートキナに『賭博者』を口述。 11月結婚申し込む。1-12月『罪と罰』を発表。 |
1867年 | 46歳 | 2月、アンナ・スニートキナと結婚。4月、国外旅行へ出る(1871年まで)。 ドレスデンで絵画鑑賞。夏にバーデンでツルゲーネフと衝突。 ジュネーブへ。バクーニンらによる平和大会を傍聴。『白痴』執筆開始。 |
1868年 | 47歳 | 2月長女ソフィヤ誕生(5月死亡)。5月ヴェーヴェ、9月ミラノ、11月フィレンツェ。 1-12月『白痴』発表。 |
1869年 | 48歳 | ボローニャ、ヴェネティア、プラハ経由で8月、ドレスデン到着。 9月、次女リュボフィ誕生。長じて仏へ渡りエーメと改名、父の回想を書いた。 |
1870年 | 49歳 | 『悪霊』執筆開始。1-2月『永遠の夫』 |
1871年 | 50歳 | 7月帰国、長男フョードル誕生。1-11月『悪霊』発表。 |
1872年 | 51歳 | 4-5月、ペロフが肖像画を描く。5-9月、スタラーヤ・ルッサ滞在。 12月、雑誌「市民」編集長就任。11-12月『悪霊』第3篇発表。 |
1873年 | 52歳 | 1月「市民」創刊、『作家の日記』を同誌に掲載。 |
1874年 | 53歳 | 4月、「市民」編集長辞任。5-6月、スタラーヤ・ルッサに住む。6-7月、エムスに。 |
1875年 | 54歳 | 5-7月、エムス。8月、次男アレクセイ誕生。9月、ペテルブルクへ戻る。 雑誌「作家の日記」刊行準備。1-12月『未成年』発表。 |
1876年 | 55歳 | 1月より雑誌「作家の日記」刊行開始。 |
1877年 | 56歳 | 7月、ダロヴォーエ村訪問。12月、アカデミー通信会員に選出。 |
1878年 | 57歳 | 5月、癲癇で次男アレクセイ急死。カラマーゾフでゾシマ長老に語る子供を亡くした話参照。 |
1879年 | 58歳 | 7-9月、エムスで療養。1-11月『カラマーゾフの兄弟』発表。 |
1880年 | 59歳 | 5月、プーシキン記念祭に参加、6月8日、講演。8月より「作家の日記」復刊。 1-11月、残りの『カラマーゾフの兄弟』発表。 |
1881年 | 59歳 | 1月26日、出血、意識を失う。1月28日死去。2月1日アレクサンドル・ネフスキー寺院で葬儀。 |