観た映画の感想のようなもの


「運動靴と赤い金魚」

1997年、イラン、マジディ監督、総天然色

 イランの映画は子供がよく出てくる。昔から「どんな名優も子供と動物には勝てない」と言うけどその通り。
西アジアの女の人の頭巾、小さい時からしているのもわかった。映画でも衣装、風俗その他なんでも西洋一辺倒ではつまらない、と改めて実感させてくれる。

「Unloved」

平成14年、万田邦敏監督、総天然色

 女主人公の性格は内向性の典型である。すなわち自らの価値観により重きを置くタイプである。外向性タイプは他人との関係に自らを認める。実際にも多くが彼女と同じ意見を持っていると思う。彼女が普通の内向型人間と違うのは意志が強く自己主張をはっきりすることである。通常の内向型人間はあまり他人との関係作りがうまくないので、外に適当に合わせ自己主張もしない。この映画の主人公は違う。
 主人公と男(達)との激論は、こんな理性的とも言える男女間の討論は多分現実にはあまり見られないだろうが、この映画の特色となっている。
 最初の男は、性格が主人公と正反対なのでわかりやすい。しかし主人公が気に入る二番目の男も人間としては最初の男と同じように見える。もしそうなら何故主人公が気に入ったのかちょっとわかりにくい。男と女の関係だから理屈だけで割り切れないところがあるということか。

「陽はまた昇る」

平成14年、佐々部清監督、総天然色

 ビクターの宣伝ビデオみたい、映画というよりテレビドラマ、というのが第一印象。
 VHSとベータの競争はつい先頃のようなつもりでいた。いつのまにか映画になるほど「歴史」になってしまったのか、という感慨で観ていた。(「生きてこそ」とか「突入せよ!あさま山荘事件」でも同様の感想をもった)
 こういう映画を観ると、ビクターVHD対パイオニアLDを素材に第2部を作り、ビクター陣営の大完敗を描き、第3部としてDVD登場によるLDの衰退を描くという「ビデオ・メディア興亡史」3部作が制作されるだろうと思ってしまう・・・・のは私だけか?

「イブの総て」

1950年、米、マンキウィッツ監督、白黒

 この映画が楽屋物として映画史上でも特に優れており、同年「サンセット大通り」と賞を争ったことや、大女優ベティ・ディビス、新鮮なアン・バクスターの演技など映画自体の魅力は、語り尽くされている。
 しかし今更ながら思うのは、この映画にマリリン・モンローが新人女優役として出てる場面(当時の彼女自身に似ている)が一シーンあるだけで、その後、現在ではマリリンモンローが余りに巨大な存在となってしまったため、モンローの映画扱いされる場合もあるようだ(上記シーンがビデオのジャケットに使われているのを見たことある)。
 当時誰も予想も出来なかった、ある意味「イブの総て」的現象ではなかろうか。

「息子の部屋」

2001年、伊、モレッティ監督、総天然色

 映画のねらいを、観客を驚かすような新規軸で見せる映画(ハリウッド映画のイメージ)と、筋そのものは大したことなくても、むしろ現実の人生に近くても、それだからこそ観ている者の共感を呼ぶ映画(名作と言われる日本映画の多く)に分ければ、これは明らかに後者。
 映画はどうしても死を軽く扱う傾向がある。それは非日常的なことが多いという映画の宿命かもしれないが、どうも不自然に感じるのが多い。その死を正面から取り上げている。 息子の方は意識していたが、特別この女の子と深い付き合いはなかった。息子は御執心だったかもしれないが、彼女のほうは友達感覚だった。ただそんな彼女にも、両親としては息子の大事な人だった、だから重要な人だ(と思いたい)、出来るだけ尽くしてやりたい、それが親の気持ちだろう。

「ターミネーター3」

2003年、米、モストウ監督、総天然色

 最初のターミネーターに感心した反動か、T2は面白さが大幅低下といった感じでそれほど評価していない。今回の第3作は意外と気に入った。
 ほとんどアクションシーンばかりで、心の交流とか「考えさせる」といった余計な場面がない。ひたすらハリウッド映画的な派手な場面の連続。B級映画そうに見えて(orの故に)メッセージの強い映画って結構ある。これはそんな映画でない。楽しんでいていればよい、思考停止で観ていられるという感じで好き。
結末近くは物足りなく、シュワルツネッガーの「心の迷い」の場面とか、T−Xの最後なんかもう少し工夫してもらいたかった。
 優柔不断のジョン・コナーでなくケイトを人類の指導者にでもする筋書きか、とか思って観ていたが、クレア・ディーンズが老けた感じで(実際向こうの人は老け易い)寂しかった。

「運命の女」

2002年、米、ライン監督、総天然色

 「ストリート・オブ・ファイヤー」のダイアン・レインが人妻役をしており、20年近く経っていても、未だに魅力的であった。 映画は不倫という良くある素材、いわば「とり返しのきく」過ちが、「とり返しのつかない」過ちを引き起こしてしまい、どうするのかというものである。
 恋人がいる人は、この映画を一緒に見に行って感想を訊けば、夫婦関係についての本音が聞けるかもしれない。 昔の仏映画のリメイクのようだが、やはりフランス映画で、トリュフォー監督の「柔らかい肌」(フランソワーズ・ドルレアックがヒロインを演じているだけでも観る価値あり)を思い起こさせる。結末が違っており、今度の方が余韻が残る感じ。

「スワロウテイル」

平成8年、岩井俊二監督、総天然色

 この映画そのもののでなく背景の設定について書きたい。もちろんこの映画で背景設定は重要な要素である。しかし映画的な観点でなく経済的に見ての感想。この映画は近未来(?)の東京あたりを舞台にして中国からの移民が主な登場人物になっている。
 しかし日本人俳優に中国人をやらせて中国語を喋らせるより、むしろ近未来日本経済がダメになって日本人が中国に大量移民する。そこでの日本移民を描いたことにすれば、ものすごく現実的というか映画の舞台にもしっくりする。この映画の雰囲気は、最近急激に発展しているものの汚い部分も圧倒的な中国そのものではないか。中国語や英語のような外国語を画面一杯にして不思議な雰囲気を出そうとする意図はわかるし「圧迫されている中国移民、横暴な日本人」「一時は繁栄していたがダメになった日本」という日本人好みの自虐趣味も理解できるのだが。
 映画作成当時は史上最高の円高の時代だし、今ほど経済閉塞感もなかったことの反映でしょうけれど。

「死闘の伝説」

昭和38年、木下恵介監督、白黒(冒頭色つき)

 これは実話に基づくものなのか?戦争末期の疎開先での日本人同士の死闘なんて恐過ぎる。題名からは深作のバトルなんとかを連想してしまうが、設定がある意味極めて現実的なのでこわい。木下忠司の音楽も不気味さを増していた。好きになれない人が多いと思うが、木下恵介の芸風の広さを示す一篇。

「それから」

昭和60年、森田芳光監督、総天然色

 名作文学の映画化で感心できるものはめったにないが、これは数少ない例外。もちろん映画としての出来で、原作の忠実な映画化とかいう観点ではない。文学と映画は別物である。古典として読み継がれている名作をそのまま映画にしても、納得しがたいものしかできないだろう。国民作家の漱石の映画化が意外に少ないのは、多くの人に読まれて漱石のイメージが夫々あることを映画人も知っているからでないか。
 この映画は現代人の、明治という時代に対する幻想的メルヘン的なイメージで作られている。実際の明治はかなり違っていたのだろうが、記録映画を見ているわけでない。それに古い時代を背景にする場合よくとられる白黒にしてなくカラーなのも感心するし、そのため幻想的情緒をもりあげている。
 原作を素材にして自由な発想で作られているこの映画は、名作文学の映画化の接近法の一例として記憶に値する。

「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」

昭和44年、石井輝男監督、総天然色

 題名に「江戸川乱歩全集」とあるのは「孤島の鬼」とか「パノラマ島奇談」等乱歩の作品をごたまぜにして作ったからだろう。ただしひどい代物である。「B級」というより「安っぽい」という日本語がぴったり。旧文芸坐で観たときは、映画の作成された昭和40年代半ばの日本映画の衰えを示している見本としか感じなかった。特に奇形等の作り物は最近の映画を観なれた眼には耐えうるものでない。
 ビデオ化されていないのも、出来の悪いせいとしか思えない。石井監督のゲテモノ映画なら乱歩原作でないが、ビデオの出ている「徳川いれずみ師責め地獄」を勧める。
 何故乱歩作の映画化は、面白くない物が多いのか。横溝正史は映画向きなのに。乱歩の映画化で面白く思ったのは深作欣二監督、丸山明宏主演の「黒蜥蜴」位。三島由紀夫の役だけでも一見の価値がある。こちらもビデオがないようだが「黒蜥蜴」の方こそビデオにしてもらいたい。

「キルビル」

2003年、米、タランティーノ監督、総天然色

 最初の出だし、黒人女との戦いなどこれは面白い映画か、と希望を持たせる。
 ところが日本に来てからの展開は、特にチャンバラシーンに至って完全に漫画になってしまった!
 タランティーノはどうせ漫画を作りたかったんだろう、と思えば文句を言う筋合いでもない。実際の「漫画」も出てくるし。しかし外国映画のチャンバラシーンなら「クローサー」とか、少ししかないが「リベリオン」の方が出来が良かった気がする。漫画とわりきった上で、注文をつければヤクザ連中は着流しでも着れば良かったのに。変なマスクして、あんなヤクザがいるのか。ついでにユマ・サーマンも着物姿で戦うとかのサービスをしてくれても。やはり動きがむずかしかったのか、似合わなかったのか、監督の狙いでなかったのか。

「バトルロワイヤル?」

平成15年、深作欣二監督、総天然色

 どうせハチャメチャな映画なんだから、真面目に見ているのがおかしいかもしれないが、いくらデタラメな設定でもその中には一貫したなにかを求めたくなるものではないか。それが全くない!
 島にたてこもるテロ集団を攻撃するのが目的なら、不良中学生たちになんであんなにハンディを負わせるのか?まるでオリンピックに出場する自国選手団に、鉄のおもりをつけさせると同じではないか。それよりはるかにひどい。
 テロ集団の目的が「大人攻撃」なら、最初から中学生集団を自分たちの仲間に入れる工夫をすべきではないか。最初は有無を言わせずあんなに大量に殺しておいて、建物の中で議論すれば簡単に両者とも、つまり殺された中学生の仲間たちも、妥協してしまうのは納得いかない。
 最後に攻撃する大人たちもなぜ機関銃による白兵戦攻撃するのか。空爆とかミサイル攻撃すれば一発で終わりではないか。
 ともかくこの映画は、銃撃戦による殺人を大量に描くのが目的で、そのためにはどんなバカバカしさも気にせずという思想で作られたらしい。
 「戦争が20年も続いている国がある」と深刻そうに言うが、「現実の日本」なら確かに深刻に響くが「この映画の日本」なら何もたいしたことないではないか。  ブラック・ユーモアがこの映画の狙いか。

「詐欺師」インド映画

 チャップリン風のいでたちの主人公はルンペン、生き馬の目を抜くボンペイにやってきて、真面目に生活していられないと知らされる。自宅で子供達相手の学校を経営している若い女の先生や、貧しいが親切な仲間たちと知り合いになる。たまたま洗濯屋に勤めている時、高級娼婦風の女に連れられ、立派な格好でカジノに行き大儲けする。お金は全部女に取られるが、同席した街の黒幕から腕を見込まれ、一緒に金持ち相手の詐欺的な商売を始める。女の先生は心配し、またなじる。最後に貧民相手に低額で家を提供する「事業」を始め、それにはかつて親切にしてくれた貧乏人仲間も投資に来る。皆なの投資した大金の入った鞄を持って逃げると見せかけ、黒幕連中とやりあって警察に渡す。
 主人公も詐欺を働いた筈だがなぜか捕まらなく、ハッピーエンドとなる。

「ストリートシンガー」インド映画

 劇場で働いている男の子は火事の際、助けた女の子と一緒に逃げ出し、男が演奏、女が歌う大道芸をやって身を立てていく。二人は青年になっている。カルカッタへやって来て劇場と交渉するが、相手にしてもらえない。 たまたま劇場関係者のところで歌ったため見込まれ、女は舞台に立てれるようになり、大成功を収める。ただ歌の先生である男の方には仕事が回ってこず、有名歌手となった女は腹を立てる。
 男は都会から出て田舎へ行く。女は名声を捨て男を追っていく。二人はまた大道芸人に戻る。

「渇き」インド映画

 詩人である主人公は穀潰しとして家族から相手にしてもらえない。大事な詩集もゴミ屋に知らないうちに引き取られていた。たまたまこの詩集を知り合った娼婦が手に入れる。主人公の学生時代の友人は出版社を経営している。 浮浪者に上着を貸すが、その直後この浮浪者が汽車に轢かれ、詩人が死んだと思われる。それを知った知り合いの娼婦が出版社に詩集を持ち込み、出版するとベストセラーになり詩人は大作家として著名になる。家族たちは自分たちもその分け前にあずかろうとする。それまで精神病院に入れられていた詩人は、本人の「死後」一周年記念の大会に姿を現し、自らを明らかにする。
 名声をもつ大詩人は死んだと言い、娼婦に新しい人生のため遠くへ行こうと提案する。

「音楽ホール」インド映画

 田舎の地主である主人公は、洪水で領地はだめになり経済的には苦しい筈だが、音楽に凝っている。息子の成人の祝には、音楽会を宮殿風の自宅の音楽ホールでやり、そのために妻の宝石等も売ってしまう。近くに借金取りで成金になった男が家をたて、音楽会をやるから来て欲しいと頼みに来るが、自尊心か見栄か、自分のところでも同じ日に音楽会をやるのだと突然言い出す。そのために無理して費用捻出だけでなく、休養に行っている妻と息子を急遽その日までに呼び返すよう言いつける。当日、音楽隊はやって来るが、天気が悪くなる。そこへ知らせがやってくる。船が嵐で沈み家族は犠牲になったと。
 その後主人公は無気力になり、経済的にも窮乏、召使も忠実な二人が残るのみ。お金がないのに、また音楽会を催すため音楽ホールを改修し、皆なを招待し高額な音楽家(ダンサー)を呼ぶ。地主は満足する。あくる日馬に乗って駆け出すが落馬する。
 サタジット・レイ監督で、今回のアジア映画特集でもやはり一番普遍的な芸術映画という気がした。

「紙の花」インド映画

 人気監督である主人公は、寄宿舎に入っている愛娘がおり、妻とは別居している。たまたま撮影所に入ってきた女性を女優向きと判断し、彼女を売り出すが果たしてスターになる。彼女と仲が良くなるが、娘は母との仲を引き裂く邪魔者と思う。娘の引き取りを巡って裁判になるが、負けてしまう。
 その後監督は零落する。エキストラになって自分が見出した女優に傅くようになる。

「雲のかげ星宿る」インド映画

 貧しい一家で、真面目に働いているのは長女だけ。芸術家志望の兄や派手な妹にも金をやり、自分は好きな男と一緒になることだけ夢見ている。しかしその男もちゃっかり屋の妹に取られてしまう。
 都会に行っていた兄は成功して帰ってくる。しかしそれまでに妹は肺病にかかっていた。世話をし続けた父も肺病病みになった主人公に出て行けと冷たく言うだけ。兄は妹に療養所を世話する。かつて楽しかった幼い頃を回想する二人。

「アマル、アクバル、アントニー」インド映画

 街のボスの代わりに刑務所に行っていた男が帰ってくると、幼い三人の男の子を抱えた妻は苦労している。約束が違うとボスへ怒鳴り込みに行くが、逆に馬鹿にされ発砲騒ぎを起こし、手下供に追われてしまう。車に乗って子供達を連れて逃走する。その際公園に子供を置いて逃げ出し、事故を起こすので死んだと思われる。実際は生きていて、車に積んであった大金を持ち逃げする。しかし子供達はその間に他人に拾われたりしていなくなっている。妻はこの騒ぎの間に失明してしまう。
 拾われた子供達は大きくなると、夫々、警官、街の愚連隊、芸能人となる。失明した母親の血を輸血するために三人の子供達が病室に集まるが、母も子もお互いに家族とは知らない。
 また父は持ち逃げした大金を元に今度は自分がボスになってかつてのボスを仕返ししている。 最後は三人の息子は夫々恋人を見つけ、母は視力を回復し、親、子、夫婦であることをお互いに判明し大団円となる。題名は三人の息子の名。

「黄金のシーター」インド映画

 「ラーマーヤナ」の後日談。筋らしい筋はない。
 隠者。それはラーマーヤナの老後。二人の王子。息子である。白い馬が駆け抜ける。 死んだ妻であり二人の王子の母が見守る、ということらしい。

「サーカス」インド映画

 サーカスがやってきて河(湖?)のほとりにテントを張り、興行、そして去っていくまで。サーカスの芸。芸人達の裏話。ほとんどドキュメンタリー映画のようである。

「リード・マイ・リップス」

2001年、仏、オーデァール監督、総天然色

 開発会社に勤める女主人公は耳が悪いため、読唇術を心得ている。バイトで雇った刑務所帰りの若い男がかつての関係で、悪人たちから金をとるため、隣のビル屋上から彼女の読唇術で話を読み取る。
 自分たちが盗んだ癖に、他の悪人がやったかのように見せかけ大金をせしめるところは、映画的すぎるが少し面白かった。

「ミシェル・ヴァイヨン」

2003年、仏、クーヴレール監督、総天然色

 カーレース。CGを使わず事故シーンなどをとってあるのが売りの映画。
 主人公ミシェル・ヴァイヨンたちの車と、アメリカの「リーダー」なるグループのカーレースでの争い。ただ敵方の悪女、あまり悪いことしすぎで(レースカー運搬車を池に沈める、タイヤをパンクさせる、父親まで誘拐して負けさせようとする)、犯罪行為だし、勝っても意味がないではないかと思わせる非現実的な映画。原作は漫画だそうである。まさに漫画的。

「苦いひとくち」インド映画

 貧しい一家(夫婦と娘二人)がカルカッタへやってくる。仕事も見つからない。スラムのような借家の家賃さえ払えない。娘は鳩の餌を盗んで見つかり、しかられるくらいである。
 母親はプライドというか見栄が高く、娘へ他家で働く仕事を勧められても断る。借家の隣家に肺病病みの老人がいる。けちだがカネをためている模様。或る日老人が出かけて隙に母親は部屋に忍び込み、盗みを働こうとする。そこへ老人が戻って来る。荷物を引っ張りあいにしているうちに老人は倒れてそのまま逝ってしまう。
 ようやく父親が借金をして米を買ってくる。見るともう食事が出来てる。どこから手に入れたか聞くがともかく食べようと答える。母親は吐き気を催し、入り口で食べた米を吐いてしまう。このシーンは、映画の最初にも使われている。一家のその後が字幕で出る。下の娘は事故死、上の娘は駆け落ち、一家に幸福は訪れなかった。
 ともかくインドの貧しさがわかる映画である。

「インアメリカ/三つの小さな願いごと」

2002年、アイルランド、英、シェリダン監督、総天然色

 アイルランド人の夫婦と娘二人がニューヨークへやってくる。父親は俳優でオーディションを受け仕事を捜す。以前小さな弟が事故死してそれが未だに夫婦に影を落としている。
 上の娘は、その死んだ弟に3つの願い事をすれば叶うと信じている。 古い建物に部屋を見つける。同じ建物に住む黒人と姉妹は仲良しになる。妻は妊娠するが順調に出産できるかどうか危ぶまれる。黒人は不治の病にかかって病院に運ばれる。出産後、娘の輸血で赤ん坊はなんとか生き延びるが、依然として危うい。黒人が生き返り赤ん坊も助かる。
 姉妹二人がかわいい。見つけた部屋がひどいといっても、ともかく非常に広い。見ていて一番気になったこと。

「ぼくの好きな先生」

2002年、仏、フィリベール監督、総天然色

 田舎町の一クラスだけの小学校の先生であるロペス氏。小さな子供たちに勉強を教える。 ほとんどドキュメンタリーといった感じである。

「対面」インド映画

 工場のある村に共産主義思想の持ち主の青年がやってきて皆なを啓蒙、組織化する。泊まった家の娘と一緒になり子供もできるが、どこかへ行ってしまう。
 行方不明がかなり続いた後、すっかり老けて、ある晩戻ってくる。子供も生まれている。 それまでに彼の指導による運動は順調に発展し、村では英雄扱いである。しかし家族に対しても村人に対しても、全く口をきかず、酒を飲むか寝ているだけになってしまったいた。 ある日殺されているのが見つかった。

「渡河」インド映画

 2部構成である。地主と小作人が争っている村。地主の手下供が小作人の村を襲い火を家に放ち、大量の殺人までする。その間に特に憎まれている夫婦は逃げ、知人の紹介でカルカッタへ行くことになる。
 尊敬されている先生が地主と小作人の争いを調停しようと努力するが、地主の物と思われるジープに撥ねられ死んでしまう。村人達は地主のしわざと思い、手下の一人を虐殺する。これから更に抗争が激しくなりそうなところで第一部は終わる。
 第2部はカルカッタへ行った夫婦の話。頼った知人は既に行方をくらまし、工場自体もいつ閉鎖されるかわからない模様。仕事を捜すが全く見つからない。街のボスの紹介で河畔で待っていると、豚36匹をガンジス河の向こうまで泳いで連れて行けばカネを出すという。あまりの河の広さに妻はおじけづくが、他にないからやる。苦労して向こう岸まで誘導しカネを受け取る。
 妻は妊娠している。泳いで渡ったため赤ん坊が死んでしまったと危惧するが生きている模様、それがラストシーン。

「お茶と同情」

2002年、米、ヴィセント・ミネリ監督、総天然色

 デボラカー主演。主人公が大学の同窓会にやって来て回想するシーンから始まる。入っていた寮の監督(大学の先生)の妻であるカー。主人公はマッチョタイプでなく、音楽好きで皆から浮いて、シスターボーイとあだ名で馬鹿にされている。海辺で教授夫人たちがいるところへ行って裁縫の手伝いまでする。大学生だけでなく、父親まで他と同じように男らしくなれと説教する。カーは同情する。同室生がレストランの女給と寝れば男らしくなるというので、カーの引きとめも聞かず行くが馬鹿にされ、発作的に自殺までしようとする。カーの主人公への同情は、夫である教師がやはりいじめに加担している、またかつての恋人に似ているので、余計大きくなり、夫と諍いになる。
 最初の場面に戻り、寮の監督に再会して夫婦の破綻を知る主人公。夫人からの手紙を読み、自分への好意を知る。また夫も理解されていなかったという点では主人公と同様とわかる。
 感想では、カーの主人公への同情、及びそれから出る行為には行き過ぎの気がした。ちょっとその辺がついていけないというか、不自然な感じ。カーが主人公かも知れないが、男を主人公とした。

「ゴアの恋歌」

インド映画

男がゴアにある荒廃した館へ戻ってくる。過去の回想となる。同館の貴族は主人が亡くなって葬式の最中。その夫人が家を牛耳るようになる。孫娘に求婚にやってきたリスボンに住む金持ち親子。娘は逃走中の従兄の愛人がいて気が進まない。その従兄がやってきて家族は警察から匿う。
未亡人はまじないで夫の霊を呼び戻そうとするが、かつてこの家で捕まった悪人の霊が出てきて呪う。
未亡人の下女は尻軽女。喪中なのだが結婚を急ぐ孫娘の両親の催促で、婚約が決まる。その祝賀の最中に孫娘は気分が悪くなる。調べてみると妊娠している。相手は愛する従兄。リスボンの親子は帰る。娘は従兄と一緒に駆け落ちする。
元の時代に戻る。男は娘を愛していた親戚の一人、またタクシーで帰る。

「希望の行方」インド映画

田舎にある2軒の親戚の家。一方の家は老父と息子、その息子が嫁を迎える。新婚夫婦は相愛だが、結婚に金を使い果たし、夫は日雇いで仕事がない。
もう一方では夫が仕事もせず井戸堀に12年も熱中し、嫁は三人の子供を抱えて困っている。それで夫の弟はボンベイへ出稼ぎに行く。男ばかりの雑居住宅に住み機織工場で働き、お金を嫁へ送る。嫁はたばこ工場へ働きに出る。
仕事のない日雇いの夫はしようがないので、彼も先に行った男を頼ってボンベイに行く。その間、新妻はもう一軒の嫁と同じ煙草工場へ行く。彼女に工場主が目をつける。
ボンベイへ行った夫は一日も早く村へ帰りたい。新妻を短期間だけ呼び寄せる。妻が戻ってしばらくしてから老父から村へ帰れとの連絡。不審な気持ちで家に着き、妻と工場主の関係を知る。
その間、井戸堀が成功して水が湧き出し、もう一軒の夫は一躍英雄になる。寝取られ男がボンベイに戻る。義弟は最初ボンベイに永住するつもりだったが、兄の井戸堀が成功したので村に帰って手伝うと言う。初めあんなに村へ帰りたがっていた夫はもう帰る気がしない。

「ミッシング」アメリカ

ジャックレモン扮する父親は、息子が南米某国で行方不明となったため、現地にいた妻(シシースペイク)と一緒に大使館の手助けで捜し回る。最後には殺害されていた事実が明らかになる。
実話に基づくドキュメンタリー調の映画。

「ロージャー」インド映画

姉の所へ嫁を取りに来た都会の男と結婚する女主人公は、姉が他に愛人がいた事実を知らないため、初めは夫を憎むが、わかって夫を愛するようになる。
仕事のため北部のカシミールへ夫婦で行くが、夫はテロ集団に拉致され、彼らの首領解放が交換条件となる。夫救出のために奔走するヒロイン。最後は大団円。

「ドゥルの少年期」インドネシア映画

ドゥルという少年の腕白ぶり。いつも金持ちで不快な少年と喧嘩し母親に叱られている。運転手の父を愛しているが、事故死してしまう。母の病気のため物売りに出るドゥル。それでも金持ちの家の少年は意地悪をしようとする。父の弟が、仕事から戻ってきて悪い少年を捕まえ親に突き出す。
叔父は母と結婚する。

「母」インドネシア映画

年老いた母、子供達は成人して結婚したりこれから結婚する年齢。長女は嫁いでいて何かと今でも口を出す。黒人の恋人がいる娘は、人種偏見のある母や姉の夫から反対されている。家出して心配をかける。俳優をしている息子は妻子がありながら年上の女と浮気している。などなど家族のトラブルを通してインドネシア社会を描く。最後は家族一同集まり写真を撮る、大団円。

「一切れのパンの味」インドネシア映画

若い夫婦。夫がマザコン、不能でうまくいってない。そこへ夫の友人が出てきて、妻とも仲良くなる。よくある若い三角関係を描いたもの、最後はうまく収まる。

「空白のページ」カンボジア映画

娘二人を連れて夫を頼って田舎の空港に着くが、兵士にキャンプへ連れられ、子供とも引き離され洗脳、強制労働を課される。子供は死亡、本人も死んだと思われて捨てられるが、たまたま救った少年と一緒になり生き延びる。都会に帰り、新生活が始まろうとする。

「生命線」スリランカ映画

正義感の強い少年は、人形遣いが悪者に財布を奪われたのを取り返し、手相を見てもらうと能力と輝かしい未来を予言される。
友達の女の子の目が見えなくなったとき、これを思い出し手をあててもらうと見えるようになる。少年の超能力は評判になる。これを利用し儲けを企む父親に連れられ、容態が悪くなっている友人の少年を治しに行くが、かえって病人は死んでしまう。更に旱魃が続く。災いをもたらしたと村人から迫害される少年と母親。死んだ少年の葬式に出ていると親が突っかかってくる。その時雨が降り出す。母親と抱き合う少年。

「かげろう」フランス映画

独軍に占領されたパリから逃げる母(エマニュエルベール)と子供たちは街道で若い男と知り合い、空家になっている家に住み込む。
若い男は少年院から逃げていたのだったが、捕まる。母子はパリに戻る。男が監獄で首を吊ったと知らされる。

「私の小さな楽園」ブラジル映画

田舎に女が子供を連れて帰ってくる。老人は結婚を申し込む。その後、もう一人の中年、それから農業の手伝いに来てた若い男も同棲する。子供が生まれるが、最後は最初結婚した老人が自分の子として届けを出す。今後も三人の男と暮らす女。

「川のほとり」スリランカ映画

精神病院に入れられている若い女。外国帰りの若い医者は原因を探るため両親に過去の経緯を問いただす。幼馴染の相思の恋人がいたが両親に別れされられ、別の男と結婚し妊娠するが、男には白人の妻子が既にいた。女は失神しそれから記憶喪失となる。
怪我が元で記憶は戻る。若い医師は好意を持つようになっていた。女はかつての恋人が外国から戻ってきたと聞く。幼い頃一緒に遊んだ川岸で、恋人が舟に乗ってやってくる幻想をみる。手を差し延べようとして川に落ちる。

「ジャングルの村」スリランカ映画

荒廃し女が一人しか残ってない村。その村の過去へ遡る。森に済む変わり者の男には、二人の娘がいた。姉を村長の義弟が恋し、反対を押し切って結婚する。妹に村の老いた医師(呪術師)が目をつけくどくが相手にされない。呪術師は父親に呪いをかけ病気にする。妹娘が結婚すれば治るとして、強制的に結婚するが、娘はすぐに逃げ出す。呪術師は、妹娘が可愛がっている小鹿とともに村に悪疫をもたらしたとの噂を流し、共に村人に殺させてしまう。 村に地主がやってくる。姉娘に目をつける。夫の男は反抗する。地主は村長と共謀で、冤罪を夫と父親にきせ裁判となる。夫は有罪の判決を受ける。父親は無罪となり村へ帰る。鉄砲を持ち出し、村長と地主を射殺する。 字幕で、夫も父親も獄死したと出る。村には姉娘しか残っていない。

「心の闇」スリランカ映画

婚約している中年男が裁判の陪審員になってみると、被告は若い時に妊娠させ捨てた下女で今は娼婦になっており、客を図らずも死なせた罪に問われていた。過去の自分の過ちに悩み、なんとか救おうとするが、有罪になり服役する。面会に行っても拒絶され、満期で刑務所から釈放時、迎えに行っても無視される。

「白象王」タイ映画

王子が大臣から、花嫁を365人もとれと言われ困る。隣国ビルマが戦争をしかけてくる。王子は象に乗り闘いに出かける。相手の王と一騎打ちで倒す。結婚は気に入った娘一人だけとする。

「傷あと」 タイ映画

村で相思の男女、親同士が不仲で結婚できない。娘の父親はバンコクへ売ってしまう。売られた家の死んだ娘にそっくりだったのでそこの夫人から可愛がられ、貴族の若い男も気に入る。
しゃれて一行で村へ戻ってくる。かつての恋人は喜ぶが逢う約束を反故にして都会へ帰ってしまう。捨てられたと憤慨する男。その後娘の母親が危篤なので一人で戻ってくる。男は娘の相手になった都会の 男にナイフで刺されてしまう。娘も川へ飛び込みそのナイフで自ら刺し心中する。

「スパンの血」 タイ映画

スパンという田舎の村の少女。ある夜不明の男達に攫われてしまう。若い男が助け出す。怪我をしているので小屋を立て、軍人と名乗る若い男とその部下と一緒にしばらく暮らす。家の者が迎えに来る。
隣国ビルマ軍の兵隊が村を襲い、村人は全員捕虜になる。助けた若い男が隊長の一人でいる。少女は好意を持っていたが敵軍だったと知り、村人に対する狼藉で憤慨する。若い隊長は少女に好意を持っているので彼女と家族だけ逃がそうとする。自分だけ逃げられないと言うので、全員を逃走させる。これを知った軍の司令官は若い隊長の父親だったのだが、例外は認められないとして息子を処刑してしまう。嘆く少女は、逃げようとする村人を叱咤し、自分達の土地を守るため戦おうと呼びかける。村人全員で敵軍に立ち向かい全滅する。

「やさ男」 タイ映画

浮気者の主人公は自動車で門を壊したので、その修理を言いつけられる。更に家の雑用一般まで手伝うことになる。本当はその家の娘との見合いに来ていたのだと、後でわかる。
気の強い娘は、今後は浮気しない夜遊びしないと誓いを立てさせ結婚する。しかしその後も浮気等は止まず、娘の父親も遊び仲間に引き込む。怒ってばかりの妻は夫の血液検査で不治の病と聞き、いきなり親切になるが、それが誤りとわかってからは元に戻る。男の父親は男寡で伯母と結婚させる。
子供が出来ても、その子供を使って遊びを続けている。

「リーグオブレジェンド」 アメリカ映画

ショーンコネリー扮するアランクウォータメンほか、ネモ船長、トムソーヤー、ドリアングレイなど世界名作の主人公が戦争を引き起こそうとする悪人を相手に戦うファンタジーアクション映画。 19世紀末が舞台。

「七つの海を越えて」 パキスタン、ノルウェイ映画

父親が先にノルウェイへ仕事で行く。後家族を呼び寄せる。男の子は学校に入り、友達も作る。しかしパキスタン人に対する偏見を持つ者もいる。少年は初め気に入っていたノルウェイが嫌いになり、故郷へ戻りたいと思うようになる。友人が家にやって来てパキスタンからここへ来た経緯を聞いて作文したいと言っても協力する気になれない。しかし友人が帰った後はその気になってマイクに向かって録音を始める。

「車輪」

バングラディッシュ

牛車で穀物等を運んでいる兄弟。あるところで死者をその男の故郷の村まで運んでくれと頼まれる。断ってもこれは公の仕事だからと脅される。聞いた村へ着く。村人がやって来て見ても知らないと言われる。名の良く似た別の村だろうと言われそこへ行く。結婚式の最中に着く。やはり知らないと言われる。行方不明者の出た村を聞き、行くがやはり無駄足だった。途中で寺の坊さんに頼むが、回教徒でなければ駄目だと断られる。最後に兄弟二人で死体を川の畔に埋める。

「まことの母」

フィリピン映画

強姦されて娘を産む。被害者の父親は無理やりその子を引き離し、預ける。被害者は立派な青年と結婚する前に自分の過去を手紙で知らせようとするが、伯母は破談になるとしてそれを隠してしまう。生まれた娘は、育ててくれた女を母と思い、歌など歌う芸人になっている。実の母親が知り自分の娘だから返してくれと迫るが娘も自分の母は育てた者と言う。強姦された悪人が過去をねたにして、ゆすりに来る。断ると夫にばらしてしまう。激怒し妻を追い出す。 最後にはすべて和解し、娘も自分は二人の母親がいて幸せという。

「廃墟からの旅立ち」

フィリピン映画

朝鮮戦争から復員してみると母は死んだ。負傷して片腕がだめになっているが、彫り物で身を立てていこうとする。彼を愛する女が働いている所の経営者になっているかつての旧友はあくどい儲けをしている。悪事に協力しろと申し出る。教会再建のためマリア像を香港に持っていく仕事を神父から頼まれる。その中に不正のカネを入れて運んでくれと頼まれる。知った女はそのカネを抜き取る。空港で調べられるが中が空と知る。元の教会に戻り、悪人と打ち合いになり倒す。

「ノリ・メ・タンヘレ」

フィリピン映画

青年はスペインから故郷へ戻ってくる。悪徳神父が力を振るっている。彼が自分の父を陥れたと知る。しかし破門され、相愛で婚約していた良家令嬢とも破談になる。また革命運動家の青年と知り合い助け合うが自分の父が彼の父の仇と知る。最後は少年と一緒に旅たつ。

「インシアン」

フィリピン映画

スラムに住む少女インシアンの母親はケチでうるさく、同居していた親戚も追い出してしまう。夫は女と逃げていた。娘と二人きりになった母は人目も気にせず若い男を連れ込み一緒に住む。娘は恋人に自分を連れ出してくれと頼むが自分勝手で失望させられる。母親のつばめはある夜インシアンを強姦する。それ以来母娘が男の女となる。母は気づかないが近所中の評判となる。娘は男に自分を捨てたかつての恋人を懲らしめてくれと頼む。男が寄ってきて母を捨て一緒に逃げようとくどている時、母は後ろで聞いており逆上して男を刺し殺す。刑務所の母にインシアンは会いに行く。男は自分を好いていたが、自分はただ復讐がしたかっただけだと話す。

「水の中のほくろ」

フィリピン映画

ある島を舞台にしたそこに住む人々を描く。筋らしい筋はない。台風。葬式。看護学校に通う娘。頭が少しおかしい伯母。妊娠。出産の場面が強烈。

「神のいない三年間」

フィリピン映画

第二次大戦中のフィリピン。日本の軍人に強姦された娘は妊娠し子供を生む。軍人は娘を愛していると言い結婚する。日本の戦局悪化。娘の家族は敵協力者として殺される。娘と子供を連れて逃げる軍人。見つかり殺される。娘と子供は逃げたが、最後には娘も殺される。
日本の軍人が髪が長くちょっと不自然。また言っていることも立派過ぎる。

「悪夢の香り」

フィリピン映画

田舎の村、かかる橋。ジープニーという車を運転する語り手青年。月にロケットを製作したブラウンのファンクラブの会長である。前半は村のスケッチのようなもの。パリに行くことになる。そこでガムの自動販売機にガムを補充する仕事につく。屋台で売っているお婆さんその他と知り合いになる。新しく建設されていく巨大なスーパーマーケット。休暇でブラウンの故郷ドイツに行く。教会の建設に立ち会う。ブラウンには愛想をつかす。パリへ戻る。屋台は取り払われている。スーパーマーケットに怒る。
文明批判という観点が感じられる映画である。

「トゥルンバ祭り」

フィリピン映画

毎年開かれる聖母祭。その祭父は歌の指導者となる。祭りで売る紙細工の人形をお婆さんの指揮の下一家で作る。祭りでやってきたドイツ人が気に入り、注文が増える。更にミュンヘンオリンピック用の大量発注が入る。祭り用は放棄してバイトを雇い総がかりで製作に励む。父も仕事だけになり歌は断る。ミュンヘンにも招待される。雨の中、聖母祭は今年も行なわれる。
経済発展を皮肉った面も感じられる。

「カルナル愛の不条理」

フィリピン映画

田舎の地主の家にマニラに働きに出かけた長男が嫁を連れて戻ってくる。マニラでうまく仕事がいかなかったからだ。専制君主の父、寡だが、母はその虐待に耐えかね自殺したと夫の妹から聞かされる。都会風の服装で外出し他家とお喋りをするとふしだらと非難される。唖の男と共感を覚える。或る日舅から犯されそうになる。夫は再びマニラに戻りたい意向。村人の陰口で嫁が唖と付き合っていることを知りその現場を押さえた父は引きずって来て姦婦呼ばわりする。耐えかねた夫は父と殴り合いになる。妻はかつて自分が犯されそうになったと叫び逆上した夫は父の首をはねてしまう。
その後嫁は赤ん坊を生むが奇形児らしい。人知れずうちに始末する。刑務所を脱走してきた夫は再び捕まり獄中自殺する。妻も村からいなくなる。妹も村を出、その娘が話を回想で物語る形式。

「静か過ぎる町」

ベトナム映画

結婚式に招かれた大臣の車が事故を起し、病院に担ぎ込まれる。手術の必要があるが、権限がないとし首都に連絡しようとする。なかなかつながらない。この際県の名を上げようとする幹部、手術で借りを作り首都に出ようとする若い医師と妻、責任が及ぶことを恐れる院長など官僚主義の滑稽さが描かれる。ヘリコプターでやってきた大臣の家族。手術は成功していたが見ると大臣でない。実は隣の県で手術が行なわれていたとわかる。

「夢の中のランプ」

ベトナム映画

少年の母は再婚し義父とうまくいかない。学校での勉強もできず仕事で自立しようとする。女の子の級長や先生は協力援助を申し出るが、少年は学校を辞め町へ働きに出かけることになる。その時不良の兄が盗品を弟の所に置くため、疑いがかかり警察に留置される。少年を助ける人々に説得により兄は自首し釈放される。筆をあげると約束した老人は死んでいた。その老人が教えてくれた万年燈、誰にでも希望のランプはある。

「幸福になりたい」

ベトナム映画

宝くじマニアの夫は仕事を辞め、その退職金まで宝くじにつぎ込む有様。あきれた妻は子供を連れ夫がいないうちに出てしまう。夫は街頭で自転車の空気入れの仕事をしながら、カネが出来ると宝くじ買いに走る。夢のお告げで番号を買いたいがお金が足りない。仕事道具の空気入れまで売ろうとするが、買い手がない。宝くじの当選番号を聞き、それがお告げの番号であったので卒倒してしまう。街頭で隣で商売していた女は自分の家に連れ込み介抱する。しかし一等に当たったのでなく、番号は一致したものの、買いそびれたため卒倒したとわかったので怒って追い出す。

「街角の歌」

ベトナム映画

男は戦争で目を悪くし、その友人は片足。男の妻は浮気し離婚したがっている。目の見えない父と歌を歌い宝くじを売っている娘と知り合いになり、助けようとする。妻の浮気と離婚の意思を知り、男は再び目が見えなくなってしまう。父娘を家に招き、自分も娘と流しを始める。妻は浮気した相手とうまくいかず働かなければいけないようになってしまう。娘に歌のオーディションを受けさせ成功させようとするが将来は見えない。

「悪魔のしるし」

ベトナム映画

無実の罪で捕らえられた男は護送中脱走する。山で悪魔と恐れられている娘と知り合う。胸にあざがあるため赤ん坊の時捨てられ、癩病の男に山中で育てられた。二人は愛し合い娘は妊娠する。娘の欲しがっている椰子の実を採りに行き男は捕まってしまう。娘は赤ん坊を産むがやはりあざがあるためショックで死んでしまう。赤ん坊は産婆が育てるといい、娘は海に水葬される。癩病の男は自分の家に火をつける。

「デッドロック」

アメリカ映画、ウォルターヒル監督

刑務所内でのボクシング試合。これまで無敵のチャンピオンにヘビー級チャンピオンだった囚人が入ってくる。闘い。やはり以前からの所内のチャンピオンが勝つ。ボクシング試合のみの映画という感じ。 レズリーシナイプス主演。

「コール」

アメリカ映画

医者と美人の妻(シャーリーズセロン)の喘息持ちの一人娘が誘拐される。身代金要求だが実は以前夫が手術で娘を死なせたと思い込んでいる夫婦と従弟。夫はセスナで娘の乗った車を追う。妻は誘拐犯と一緒の車でやはり追う。道路でのぶつかり合い。如何にもアメリカ風のサスペンスアクション映画。

「女、妻、そして娼婦」

マレーシア映画

結婚式の最中に、花嫁は別の男と駆け落ちしてしまう。花婿は逃げた二人を捜し出し、男を射殺して、女を娼婦宿に売る。後に女を取り戻し、結婚して故郷に帰り一緒に住む。女は淫乱のため、行商の男や村の男を誘惑する。間男はもう一人の間男を殺してしまう。夫は間男を殺す。(最終場面記憶不鮮明)

「ジミ・アスマラ」

マレーシア映画

ジミ・アスマラは人気歌手でバンドの仲間と1950年代人気があった。バンドの一人の妹と仲が良い良家の娘はジミに憧れる。時代が変わり人気が落ちる。それでも娘はジミに対し好意を持ち、許婚の男にはつれない。許婚はジミに対する嫌がらせをする。ようやく運が向いてきてコンサートを開けるジミとバンド。その日が結婚式の日と重なっていた。結婚式で同意を与えず、コンサートへ駆けつけてきた娘。怒った相手の男が猟銃を舞台のジミに向ける。バンドの仲間(友人の兄)がかばって撃たれる。

「放火犯」

マレーシア映画

インドネシアから渡ってきた男とその家族。妻と息子二人娘二人。不快な奴の納屋に火をつけ裁判に問われる。証拠不十分で無罪になるが村から追い出される。別の村のゴム菜園で働く。主人の家から絨毯を掃除するよう言いつけられるが、損なってしまう。賠償を命ずる主人。怒ってここでも裁判に訴えるが有罪となる。夜、息子を連れて主人の納屋に火をつけようとする。もう一人に息子が主人の家に告げにいく。鉄砲を持って脅す主人。それでも火を放す。銃声が響く。

「愛しのサルマ」

マレーシア映画

サルマは、兄弟のうち弟と結婚した女の名だが、兄弟の家族が話の主題。
 マレーシアの独立運動期。英語の教師の息子二人のうち長男は捕まり投獄される。その間に父は亡くなり兄は気がおかしくなる。家に戻ってからも庭の檻のような牢屋に閉じ込められている。
弟は家を出て都会でサルマという女性と仲良くなり結婚して戻ってくる。この当たりから話は始まる。田舎の家で檻の兄の世話などサルマは嫌がり、家を捨て都会に出たがる。
母は弟に財産を全部やるが兄の世話をしてくれと頼む。しかし妻の願いに負け家を出、母に無断で土地まで売却しようとする。母は事故による足の傷が化膿し、過失で火を出した際、亡くなる。家に戻ってくる弟夫婦。しかし兄を叱ろうとしたサルマを逆に兄が傷つけ、兄は施設に送られる。
数年後、出来た子供を連れて弟夫婦は兄を訪ねる。抱擁する兄弟。

「にっぽんむすめ」

ビルマ映画

ビルマと日本の合作だが、日本でロケしたビルマ映画。日本語の会話にビルマ語の字幕が出る。日本語の字幕はなし。
ビルマから飛行家の兄弟が東京にやってくる。料理屋の娘高尾光子と仲が良くなり、兄とは相思の仲にになる。そのため兄は事業がおろそかになる。弟は娘に事業のため兄と別れて欲しいと頼み、心ならずも承諾する。飛行機事故による資金不足を補うため弟は自動車レースに出て優勝し、その金で日本からビルマへの飛行の準備をする。飛行は成功するが病に倒れた娘はそのニュースを聞きながら息を引き取る。

「川の流れのように」

ビルマ映画

男寡の主人公は二人の子供を養うため、再婚もあきらめバイト等もやりながら頑張っている。子供は共に成長し、いい結婚相手を見つける。しかし子供は裕福になったが、訪ねても忙しいとろくに対応してもらえない。病気になり、かつての再婚候補の女性が看病に来る。子供二人は父の不幸と苦労を知り後悔する。父親は今度は女性と新しい人生をやり直すこととなる。

「ラブハッピー」

ハーポマルクス主演。

グルーチョ扮する探偵がロマノフ王朝のダイヤを巡る事件で活躍したと話を始める。昔の場面になる。大型ダイヤは缶詰に入れられ食料品店に密輸される。
売れない劇団の食料調達係りのハーポは、その缶詰を他の食料を一緒に自分の劇場へ持ってきてしまう。缶詰にダイヤが入っていないのであわてる悪党たち。悪党の親玉はロシア女性である。口のきけないハーポが缶詰を持っていったことはわかったので、催眠術で聞き出そうとするが、唖なので無理である。しかし電話盗聴で劇場にあるとわかり劇場に押し込み缶詰捜しになる。屋上での追っかけ合い。缶詰は自分が持っているとして探偵と悪党の女性は結婚したこととなっている。
途中で探偵のところへマリリンモンローが顧客としてやってきて、ほんの少し出る。

「男の敵」

チャールズダッシン監督、仏映画

刑務所から出てきた男。昔の仲間から悪事に誘われるが断る。しかし自分の女が他の男についていることを知り、やる気になる。警報装置をはずすための工夫が見もの。仲間と一緒に押し込み、床を破って金庫から巨額の宝石を盗みだす。しかし宝石の一つを自分の女にやってしまった仲間がいたことから簡単に別の悪党にばれ、四人の仲間のうち二人は殺され、一人の仲間の息子を誘拐し引き換えに宝石を寄こせと脅迫に出る。主人公は相手のアジトを突き止め子供を救い出す。しかし事情を知らない仲間は宝石を持っていき、打ち合いになる。仲間は殺され相手の悪党も全滅するが、主人公も深手を負い、子供を連れてパリへ自動車で戻る。到着したときに死ぬ。

「女と男のいる舗道」

ゴダール監督

レコード店で働いている娘。街娼になる。男達との交渉。喫茶店で老人と哲学論議。最後は恋人に売られようになり、悲劇的な結末を迎える。
 ヒロイン、アンナ・カリーナが「裁かるゝジャンヌ」を見て涙を流す場面は有名。

「激怒」

フリッツラング監督

結婚前の恋人。女は西部へ行きに働く。男は残って一年働き、結婚のため西へ会いに行く。途中警察署に呼ばれた際、落花生が好きな男は誘拐犯と間違えられ、牢屋に入れられる。町の男達はリンチにかけようとする。警察署に放火する。その場に来た娘は、男が死んだと思い失神する。実際は生きており、自分は隠れ、兄弟に働きかけリンチした民衆を裁判に訴え、死刑に持っていこうとする。真実を知った娘はやめさせようとするが復讐の鬼となった男は耳を貸さない。判決、有罪となる者も出てくる。その時裁判所に男は現れる。復讐の怨念を克服した男は娘に感謝し一緒になろうと抱き合う。

「ブルドッグ」

ヴィンディーゼル主演。

麻薬捜査官の男はメキシコまで出かけ麻薬王を逮捕する。しかし妻を射殺される。麻薬王が獄中にいるので別の男がその位置に就き仕切ろうとする。麻薬王の家族も犠牲になる。麻薬王は復讐のため麻薬捜査官に情報を与える。おとり捜査の途中で妻を殺した男を逆上して殺してしまう。入手した情報で新たなボスを倒す。その見返りに麻薬王に脱走する機会を与えていた。自らの故郷で自適している麻薬王に捜査官は乗り込み、逮捕する。

「ヘブン」

ケイトブランシェット主演。

イタリアのある町。夫と自分の教え子の復讐で、麻薬のボスを亡き者とするため時限爆弾をしかけにビルに乗り込む女。爆弾をゴミ箱に入れて出てくるが、それをかたずけた掃除婦がエレベーターに乗り、同乗していた子供等供犠牲になる。
逮捕後、憲兵隊で尋問を受け自分の復讐が失敗したと知り愕然とする。通訳の若い憲兵は女に好意を持つ。そのため脱走計画を持ちかける。これを憲兵側は盗聴していたが片付けるため見ぬふりをする。脱走では計画とおりやらなかったため成功する。男は女から事情を聞き、麻薬王を殺害する手助けをする。二人でその後逃亡する。友人の家にいた時、憲兵隊が包囲する。隙を見てヘリコプターを乗っ取り、空高く上昇していく。

「青の炎」

邦画

17歳の高校生、母と妹との暮らしに母の離婚相手がやってきて家にいつく。殺意を燃やし計画を立てる。授業途中に抜け出し、酒に酔っている男に電気を体に通し感電死させる。しかし目撃していた不良の仲間から強請られる。コンビニでバイトしているので、偽装強盗で金をやると言う。夜やってきた不良を殺害してしまう。学校の同級生の女の子や妹は知っているが庇おうとする。警察も犯行を気づく。自転車でトラックに突っ込む高校生。

「沈黙の標的」

スティーブンセガール主演。

考古学者は遺跡発掘中に、麻薬の運搬に遺跡が利用されていることを知り、逃げるが助手の女は殺されてしまう。また自分の妻も中国の麻薬マフィアに殺される。復讐の鬼となった考古学者は麻薬マフィアを一人一人殺していく。最後一人残ったボスとも対決して殺す。

「悪霊喰」

主人公の恩人である異端者の神父が謎の死を遂げる。主人公の神父はローマに行き調べる。それで死者の罪を食うという罪喰いを知り、対決する。

「ジョゼと虎と魚たち」

足の悪いジョゼなる娘、その祖母を偶然知った主人公。ジョゼと仲良くなりそれまでの恋人と別れる。動物園の虎を見に行く。男の田舎へ行く途中の水族館は閉まっている。連れ込みで、魚のイメージスクリーンのある場所に泊まる。最後にはジョゼと別れ、元の恋人に戻る。

「解夏」

主人公の男は学校の先生、教育学を勉強している娘と婚約中。自分がそのうち目がみえなくなる病気にかかっていると知る。田舎の長崎に戻り、母と一緒に住む。婚約者の娘もやってくる。最後は失明する。

「おとぎ話」

インド映画

昔話を子供相手に老人が話し始める。王様、青年を生贄にせよと命じる。隠れているうちに策を練る。青年が王の息子とわかり、処刑直前に救われるハピィーエンドになると思いきや、実はこうだったと首を切られてしまう結末。

「占拠」

インド映画

ジプシーの群れが、以前自分達の仲間で男と逃げてその男は死んだものの、今領地を持っている娘(子持ち)へ自分達を泊めてくれと頼むがすげなく断られてしまう。この娘の持っている土地を取り上げようとしている男達は、ジプシーの群れに、娘が正式な結婚をしていないと裁判で立証させるため、援助を申し出る。裁判で娘はきれてしまい退席する。その夜娘の家は放火される。焼け跡でジプシー達は娘に一緒に旅立とうと申し出るが、娘は断る。

「屋根」

イタリア映画

貧しい男女が結婚して夫の兄の家に同居しようとするが、狭い家、兄と喧嘩して夫婦飛び出す。行くあての場所は立ち退きされており、建築現場で働く夫は仲間に頼み、家を建てれればそこに住めるので、不法だが一夜で仲間達と建てようとする。しかし警官が来て追い払われる。別の場所に行き工事を始めるが中々進まない。妻は追い出されたというものの熟練工の兄に協力を頼むに行く。明け方まだ屋根が出来ていない時に警官達がやってくる。温情で警官は立ち退きを命ぜず見て見ぬふりをする。家をようやく持てた夫婦。

「テイキング・ライブズ」

2004、米映画

アンジェリーナ・ジョリーがFBIの特別捜査官を演じるサイコサスペンス映画。かなり気味の悪い場面が良く出てくる。題名は犯人が次々、といっても長期間にわたり殺人を犯していく(さらにトリックがある)ことから名づけられている。 カナダで起きた殺人事件にFBIから助っ人としてやってくる女主人公。連続殺人犯の心理を分析する。しかし途中から出てくる目撃者(イーサン・ホーク)が重要な役を演ずる。最後の展開についてはやはり読めてしまった。

「イエスタデイ 沈黙の刻印」

2004、韓国映画

近未来を舞台にしたアクション映画、といっても筋が良くわからん。主人公である刑事の息子が事件に巻き込まれ被害に逢う昔の思い出、拉致される警察庁長官とその分析官の娘、それに派手な銃撃戦。過去の秘密の国家プロジェクトが暴かれていく展開、それにしても不明な映画、カネをかけているとインターネットの情報で知った。
エンターテイメントという感じでない。多分ヒットしなかっただろう。

「悪党」


昭和40年、新藤兼人、白黒

14世紀、戦乱で荒れた京都、日本史上でも「悪名」高い、成り上がり者の権力者高師直(小澤栄太郎)は判官(木村功)の女房(岸田今日子)に眼をつけ、侍従(乙羽信子)を使って自らのものとしようとする。悲劇的な成り行きは予想される。
原作は谷崎潤一郎の『顔世』、谷崎は好きなので読んだと思うが覚えていない。

「殺したのは誰だ」

昭和32年、中平康、白黒

脇役を多くこなしている菅井一郎が主役。娘に若い時の渡辺美佐子、息子は学生服の小林旭で、登場人物だけでも見る価値がある。自動車のセールスマンの菅井は西村晃司(これも若い)から話を持ちかけられて、自動車事故を起こし保険金を受け取る仕事の加担をしようとするが・・・。
題名から連想される犯罪ミステリというより親子の心の通い合いがむしろ主題、ちょっと見て裏切られた気がしてそれが良かった。

「ルパン」

2004、仏、伊、西、英、総天然色

主人公がルパンのイメージと異なりすぎる、といってもルパン三世しか知らない人なら抵抗はないのだろうか。 話の展開はルパンの物語をあっちこっちひろってきて編集した感じ、映画としての出来はそんなに悪くない。なんといってもあの『奇巌城』で名高いエトルタの海岸が出てきたのは感激した。
続編を作ります、と言わんばかりの終わり方。

「裸の太陽」

昭和33年、家城巳代治、白黒

 蒸気機関車の釜炊きである主人公の若者は江原真二郎、恋人役で紡績工場の工員はあまりなじみがなかったが、丘さとみ。彼女の妹役で中原ひとみが出ている。恋人ふたりは貯金をためて結婚を計画している。明日は公休日で貯金を少し下ろして海水浴に行く計画を立てている。しかし若者の同僚である仲代達矢(若い!)扮する暗い男がどうしてもカネを貸してくれと言いに来る。結局カネを貸してしまうので海水浴にも行けなくなりふくれる恋人。街中の風景が懐かしいし、今は「絶滅」してしまった職業である蒸気機関車の釜炊きの模様も良くわかる。青春映画の佳編。

「姉妹」

昭和30年、家城巳代治、白黒

 野添ひとみ、中原ひとみが兄弟役。ほんとは一つしか歳が違わないが、そういう設定であるからというものの、中原ひとみは幼く見える。二人は山の発電所で働く親の元から都会(松本)の伯母の家に預けられている。発電所の技師との姉の恋。またまっすぐな性格として描かれている妹。母親役で戦前松竹映画を代表する女優の一人である川崎弘子が出ている。
 姉の気の進まぬ結婚で話は閉じるが、このようなままならぬ現実、それが社会のせいと言っていられた時代の映画である。全体の左翼的な雰囲気も時代を感じさせて悪くない。

「最後の億万長者」

1934、クレール、仏

 カジナリオという賭博でもっている小国、そこの出身で億万長者といわれるバンコという中年を王女と結婚させて自国を救おうとする老女王やとりまきたち。孫娘の王女は宮廷管弦楽団の若い指揮者と恋仲である。バンコはカジナリオへやってくるが頭を打ち気が触れ、馬鹿げた命令を次々に国中に出す。この辺、正気でない独裁者の支配するドイツの風刺のようである。狂ったバンコを始末しようとした女王のもくろみは頭を打つことによって、正気に戻す。まともに戻ったバンコは王女との結婚を思い出し女王に催促する。指揮者との関係を知った女王は若い二人を逃がし、自分が身代わりになってバンコと結婚する。しかしその結婚当日バンコの倒産を新聞で知って卒倒する。
コメディであるが、当時のドイツの風刺など具体的な政治主張は、かえって映画の魅力を殺ぐ気がすると思う。

「ジェニイの家」

1936、カルネ、仏

 フランソワーズ・ロゼー扮する主人公は巴里でナイトクラブを経営しており、若い燕がいる。ロンドンから帰ってきた娘にはレストランを経営していると言う。娘は好奇心で親の「レストラン」へ行ってみて実態を知り、そこで好色漢から助けてくれたのは母の燕である。二人は事情も知らず愛し合うようになる。母の実際に嫌気をさした娘は、男と旅に出るという。その時に男(燕)が暴漢に襲われ怪我をする。病院を訪れた母は燕の恋人が自分の娘と知り、見舞いにやってきた彼女と鉢合わせとならないよう去る。
 『天井桟敷の人々』や『悪魔が夜来る』で名高いマルセル・カルネの処女作。初めて観たのは何十年前だろうか。その際は非常に感激したものである。上記有名作よりもずっと好きな作品であった。今回見直してみて以前ほどの感銘を受けなかった。観て特別感激した映画を後日見直すとそうでもない、という経験は何回かある。今回もそうであった。しかしながら若い時に感激したのも事実である。
 一人の男を巡る母娘の話は映画になりやすい。例えばダスティン・ホフマンの『卒業』、あるいは視点は異なるがルビッチ『ウィンダミア夫人の扇』、それから邦画であまり有名でないが、淡島千景と若尾文子の母娘、男は森美樹が演じた『蛍火』など思い出した。もっと適当な例もあるだろう。

「オイジョン(母)」

2001、ウズベキスタン、総天然色

 ウズベキスタン映画を初めて観る機会を得た。
 これはウズベキスタンと日本(東京)双方が舞台の映画、日本人の俳優も沢山でている。ウズベキスタンの少女の母親は事故死する。その母にそっくりの日本人が観光でサマルカンドに来て、てっきり自分の母と娘は思ってしまう。話をつけて娘を東京に一時預かる。やはり娘は自分の故郷が恋しくなる。
 ウズベキスタンはトルコ系の民族なので、日本人にそれほど似ていないと思うが、中には蒙古系というか、東アジア系の顔立ちも他の映画にも出てきたので、この日本人俳優をウズベキスタン人という設定でもそれほどおかしくないのだろうか。

「UFO少年アブドラジャン」

1992、ウズベキスタン、総天然色

 スピルバーグの「E.T.」もどきの円盤、といっても鍋のような形(ナレーションが入る)、から宇宙人の少年が村にやってくる。彼は超能力をもち、村人が鍬にまたがって空を飛べるなど奇跡を起こさせる。ただし以前虫を殺した議長にはその能力が授けられない。宇宙人の少年は金髪で、彼を保護した男が自分の息子だと紹介したため、てっきりロシア人と浮気したと妻は思ってしまう。ウズベキスタンはトルコ系で、金髪はないのである。こういう映画を観て、中央アジアのこと自分は何も知らないのだと知らされた。これが知らない国の映画を観る面白さの一つだろう。ハリウッド映画ではこういう楽しみはない。

「タシケントはパンの町」

1968、ウズベキスタン、白黒

 ソ連時代の映画である。革命後、ソ連各地は飢餓に襲われた。その時代を背景としている。中央アジアの田舎に住む少年の父親は既に餓死している。餓えている弟たちや母親を残して、豊かな町と言われているタシケントに食糧を求めて、友達を誘って向かう。鉄道に潜り込み、途中で友人を病死させるなど苦難を乗り越えていく様が描かれる。ドキュメンタリータッチのソビエト初期の映画らしい雰囲気が濃厚である。
 感じとしてはやはりソ連映画である「動くな、死ね、蘇えれ」を思いだした。

「I WISH...」

1997、ウズベキスタン、総天然色

 あるきっかけで奇跡が起こせるということがわかった男の話である。子供時代の回想と大人になった現在双方が出てくる。子供のときからその能力があったのだ。友人でしがない役者をしている者を主役に抜擢させるようにする。ただしその奇跡の能力でもどうしようもない事態になる。ウズベキスタン映画では「UFO少年アブドラジャン」もそうだったが、こういう御伽噺の設定を良く使うのか。

「演説者」

1999、ウズベキスタン、総天然色

 語り手が自分の祖父の回想をするという設定である。ロシア革命の時代、男(回教徒)は三人の妻を持っていた。革命前たまたま逃亡している革命家を助けたため、彼らから革命後の普及啓蒙活動に引っ張り出される。そこで男は自らの演説家としての才能に目覚める。女議長との恋や、三人の妻たちの「解放」、啓蒙など、旧社会が社会主義建設時にいかに巻き込まれていったかが描かれる。

「浮浪者」

1951、インド、カプール監督、白黒

 裁判の場面から始まる。判事殺害未遂で裁かれている若い男の弁護に、若い女性の弁護士が名乗り出る。ここからなぜこうなったか、過去の回想になる。判事の若い頃、家族の反対を押し切って結婚した妻が盗賊にさらわれた。妻は無事に解放されたが、盗賊と関係したのではないかと疑心暗鬼になり、判事は家から追い出してしまう。妻は判事との子供を産む。スラムで育った少年は母親の希望となり、また金持ちの少女から慕われる。しかし窮乏の中、病気の母のためパンを盗もうとして捕まり犯罪人になる。かつて母をさらった盗賊の手引きで悪の道にひきこまれる。盗賊は父親の判事に盗賊の息子は盗賊だと言われ、判事の息子を悪人にしたて復讐をしようとしていたのだ。成人して美人になったかつての少女(判事に養われてきた)との出会い、双方が再び惹かれ合う。主人公は母親を襲おうとした盗賊を殺してしまい、また母親は判事の車にはねられ亡くなってしまう。恋人の女性は結婚したい主人公を判事に引き合わせようとするが、逆上した男は判事に刀を向けて捕まってしまった。裁判の場面に戻り、最後は大団円となる。
 ともかく長い映画であった。175分もかかりテレビの連続ドラマ向きではないかと思った次第。

「アーン」

1952、インド、メーフブーウ監督、総天然色

 インド初のテクニカラー作品だそうだ。ただし最近良く見る「デジタルリマスター」版とはほど遠く、色が褪せ字幕が極めて観にくい、昔の名画座で上映していたような画質であった。主人公は最初ロビンフッドみたいに、満員の球戯場で王の目前、果し合いに打ち勝って駿馬をものにする。その王の息子は悪役で、また妹は姫なので誇り高いが、主人公の男と惹かれ合う。更に主人公を慕うほかの女性も出てくる。もともと161分もあったものを88分に短縮した版だそうだ。インドを舞台にした恋あり冒険ありのロマン映画といったところか。

「月夜の傘」

昭和30年、久松静児監督、白黒

 ホームドラマ、東京の郊外を舞台に、近所付き合いをしているいくつかの家族がある。主婦役は田中絹代、轟夕起子、新玉三千代など。いつも主婦たちは洗濯のため井戸端に集り、正真正銘の井戸端会議をしている。まだ水道があっても水の出が悪かったりして井戸が実際重宝されていた時代。近くの独居の老婦人(東山千栄子)はピアノを弾くことがあるが、亡くなったピアノ奏者の息子を偲んでいるのである。その老婦人から生活のためピアノを買ってくれないかと持ち込まれ、主婦たちが相談して合同で買おうとする。子供たちも大喜びである。しかし夫たちはそんな金はない、テレビの方がいいといって乗り気でない。必要な金額がわかると二の足を踏んでしまう。やはり夢か。ピアノが憧れの的であった時代である。それを聞いたお手伝いの婆や(飯田蝶子)が自分の貯金を出そうと言い出す。
その他、自分の息子が付き合っている女学生が気になってしょうがない話や、非常に若い主婦の新玉が学生に慕われるとか(その学生の友人役で出てくるのが宍戸錠、高校生のなりなのでちょっと見た目には彼とわからない)、子連れ(仁木てるみ)の未亡人と、やはり子連れの男(伊藤雄之助)を見合いさせようとする話など沢山の挿話が進行していく。
 後半の一つのクライマックスになる、田中の子供たちが善意で作った鶏小屋を、独裁的な父親(宇野重吉)に壊されてしまうので生じる親子の対立。ともかくこの映画を観ていて実際昔は封建的というか、男(夫)がえらく威張っていた、というより勝手だった(権威があったとは違うと思う)、また子供のガールフレンドが誰かとかに無闇に親が介入するなど、「今日の常識にてらして問題がある」状況がよく出てくる。それから鶏の卵が20円、昭和30年ですよ、すごく卵が高かったとわかる。

「不敵な男」

昭和33年、(監督)増村保造、白黒

 悪質な不良を絵に描いたような主人公演ずる川口浩は田舎出の娘野添ひとみをだまして売り飛ばそうとする。刑事船越英二が現場に来て逮捕される。過去の悪事も裁判で明らかにされ、小菅刑務所に一年間くらいこむ。出所して顔役になったつもりだが、かつてだました娘は「成長」しており、逆にナイフで刺される。復讐するため男の出所を待っていたと言う。刑事はなにくれと男の面倒をみようとする。刑事との付き合いを見られたため組の者から警察と通じているのではないかと疑われる。組のボスの命令で刑事は殺され、男に娘を四国へ売れと命ずる。面倒になった男もそこで片付けてもらう魂胆であった。しかし男は娘を逃がしてしまうので逆上したボスと組み合いになり、拳銃で殺してしまう。殺人犯となった男を捕らえようと新宿中に捜査網が張り巡らされる。男はその中を逃げまどうが娘にもう一度会いたいと思う。拳銃の打ち合いになり男は撃たれる。救急車で運ばれる男へ娘はすがりつく。
 悪の若者の転落を描いていて、ちょっと勧善懲悪的な作品かと思ってみたが、最後では娘は自分の一生を台無しにした男に好意(同情?)をもつようになる。

「氷壁」

昭和33年、(監督)増村保造、総天然色

 原作は井上靖の小説、井上靖は以前よく読まれ、実際どの程度可能性があったか不明だがノーベル文学賞の候補として話題になったこともあった。今はどのくらい読まれているのだろうか。川崎敬三が山本富士子演じる人妻(夫は白髪頭の上原謙)に恋し、その思いを振り切ろうと友人の菅原謙二(主人公)と山登りするがナイロンザイルが切れて転落死してしまう。本当にザイルが切れたかどうかが焦点になる。主人公と人妻及び友人の妹(野添ひとみ)との関係など小説ならともかく、映画では少し時間が限られている感じがしてしまう。主人公の上司役の山茶花究の演技が映画らしい感じを与えてくれた。

「わが道」

昭和49年、(監督)新藤兼人、総天然色

 青森から60過ぎの老人(殿山泰司)が出稼ぎに出る。最初向かった名古屋近郊から東京方面へ行って消息を絶つ。帰りを待つ妻(音羽信子)は捜索願を出すが警察はそのうち帰ってくるだろうと構えている。身元不明人の死体の写真を見てそれが夫と知り、東京へ向かって調べると慈恵医大で実験解剖用にされていた。区役所や警察の処置に怒った妻は地元の記者(戸浦六宏)その他の支援により裁判を起こす。
 裁判で訴えが認められたところで映画は終わっている。劇的な展開はないが実際にあった話の映画化なので、ドキュメンタリーとして見ればよいのだろう。

「巴里の暗黒街」

1932、仏、(監督)トゥールヌール、白黒、発声映画

 パリで刑事殺される。その犯人捜査で女主人公のマルセル・シャルタン扮する怪しい女が浮かび上がる。警察は若い刑事をつかって身辺を探る。女は麻薬の密輸に関係しているらしい。最後は犯人一味を追いつめ銃撃戦となる。若い刑事は女主人公に情が移り、逃がそうとも考える。駅で他の刑事達に逮捕される。男が刑事と知って愕然とする女、しかし男が逮捕するつもりでなかったと確認し安息する。
 女主人公は『沐浴』『地中海』など戦前フランス映画でおなじみのマルセル・シャンタル。戦前フランス映画ということでいかにも「フィルム・ノワール」と呼びたい映画である。最後の場面が若干余韻を残させる。

「マドモアゼル」

1966、英仏、(監督)リチャードソン、白黒

 ジャンヌ・モローが悪女を演じる。仏の田舎町で放火が相次ぎ、水門も開かれ村が水浸しになるなど不祥事が起こる。出稼ぎにやってきているイタリア人に疑いがかかる。彼が女たちにもてるのも男共は気に食わない。そのイタリア人の息子が通う学校の、パリからやってきたマドモアゼルと呼ばれているモロー演じる女教師が真犯人なのだが、村人はイタリア人を犯人と思い込み、迫害を加えようとする。
 まず動物迫害の場面に驚く。最初の方でモローが鴨の巣の卵を握りつぶすのはまだまし、なかほどで少年が兎を叩き潰すところを見ると、今時こんな映画は作れないと思わせてしまう。
 また村人の異邦人に対する偏見と悪意。どこの国でも教養(教育)の程度の低い者ほど、こういった偏見が強い。教育、啓蒙の必要性を今更のように感じてしまう。
フ ランスの田舎町が舞台だが言語は英語である。イタリア人同士はイタリア語を使っている。

「青い麦」

1953、仏、(監督)オータン=ララ、白黒

 コレットの原作を基にした青春映画。夏の間、海岸の避暑地へパリから来ている一家の少年は従妹と恋仲である。年上の夫人とたまたま知り合いになり、少年は惹かれる。従妹の女は激しく嫉妬する。海辺を舞台にして若い男の前に現れる年上の夫人といえば米映画「おもいでの夏」(1970)を思い出す。この映画では、夫人よりやはり若い男と女の間の方が中心であるように思える。
 観る者の年齢によって感想も違ってくるのではないか。もっと若い時に観たかった。

「可愛い悪魔」

1958、仏、(監督)オータン=ララ、白黒

 かつて欧州を代表するセックス・シンボルといえばBBことブリジット・バルドーと言われていた時代があった。そのバルドーのセックス・シンボルとしての代表なら「素直な悪女」(1956)と本作である。しかし有名なのに本作はビデオ等になっていないようで、これまでみる機会がなかった。
 「素直な悪女」は総天然色であったが、これは白黒、ただしあのフランスを代表する名優ジャン=ギャバンとの競演である。「素直な悪女」の冒頭の後姿は有名だが、本作でも裸体の場面が出てくる。ただ一瞬カットされているような感じだった。「完全版」ならもう少しはっきり見えたのだろうが、当時としては特にわが国であれば十分刺激的であったろう。(もっとも今でもそうかもしれない。あまりさらけ出すとかえってしらける)
 バルドーは友達と押し込み強盗に入り老人を殴ってしまう。ジャン=ギャバン扮する弁護士の働きによって無実となる。しかし弁護士はバルドーに魅せられ、その後も家を与えるなどして囲おうとする。元からのバルドーの恋人である若い男は当然面白くなく妨害を加える。
 最後については、こういう終わり方も当然予想されるが、もう少しひねりがあってもよかったのではなかろうかと思ってしまった。

「いぬ」

1963、仏、(監督)メルヴィル、白黒

 ジャン=ポール・ベルモンドが警察の犬となって悪党共を罠にかけることがベースになっているが、単純な話でない。最後になって種明かしがされるのだが、それも延々と説明によって解説されるのである。ボケーとしてみているとその「解説」を聞いていても細かいところはわからないだろう。本格推理小説を映画にしたようなもので気に入る人もいるもしれない。あまり映画向きでないとも言える。理詰めでいかにも、そういう意味でフランス映画らしい。

「のらくら兵」

1928、仏、(監督)ルノワール、無声映画

 若い詩人と召使が軍隊に召集される。家で祝いを行なう場面から映画は始まる。招かれた大佐は入隊後上司になる。召集される息子に目をかけてもらおうと親は気をつかうが、召使の不手際により大佐に不快な思いをさせてしまう。入隊後は、訓練等でドタバタ喜劇が展開する。ただし昔の映画であり、現在の眼からみると抱腹絶倒というほどでない。後半では軍隊内で劇が開催されるのだが、そこでもてんやわんやとなる。ただし上司の大佐は意外とものわかりがいいとわかる。
 無声映画で2時間以上なので結構長い感じがした。静かな中での鑑賞であったのでいつものことだが、寝ている人のいびきがよくしてた。

「ナポレオン」

1955、仏、(監督)ギトリ、総天然色

 ナポレオンの一生を描いた大作。ナポレオンの映画化といえばアベル=ガンスの無声映画が有名だが、あれは青年期くらいまでのものしか知らない。これはセントヘレナで亡くなった報を聞き、タレーランが皆に回想説明するという構成で、ナポレオンの一生を映画化している。絵画でおなじみのいろんな姿に扮装(?)して登場するナポレンをみているだけでも面白い。あのダヴィドによる戴冠式の場面も出てくるし。
 撮影当時の有名俳優が沢山でてくる。30歳台のベートーベンを老名優(シュトロハイム)が演じているが、(クラシック音楽ファンからすると)ちょっとギャグのような感じがして失笑してしまった。戦闘の場面などその後のソ連製の「戦争と平和」や最近のCGによる「迫力」ある場面を見慣れている目がすると物足りない感じもするだろうが、時代を考えればあんなものだろう。ともかく2時間程度にまとめてあって歴史の勉強にもなるし、特に傑作と言う気はしなくとも、観て悪くない映画である。

「燈台守」

1929、仏、(監督)グレミヨン、無声映画

 離れ島の燈台に父と二人で籠る若者、しかし島へ渡る前、恋人とデートしていたとき狂犬に噛まれたせいで、次第に狂ってくる。嵐の夜、船が難破しそうなのに燈台に灯りはつかない。父親はなんとか灯りをともそうと狂った息子と格闘となる。
 孤立した場所に長期間籠っていて狂った若者と言えばモーパッサンの小説にもあって(山小屋の設定であった)それを思い出した。
 光の扱いで幻想的というか凝った扱いの場面が途中に出てくる。

「ぶどう月」

1918、仏、(監督)フイヤード、無声映画

 活劇「ファントマ」で名高いフイヤードの長編映画。第1次世界大戦末期、戦争に追われ、ぶどう摘みの「出稼ぎ」に出かける一家は途中の船上で、戦争から戻ってきた若者と知り合いになり、盲目になった傷痍軍人及びその母親が経営するぶどう園へ一緒に赴く。
 そのぶどう園へ集った者の中には、二人のドイツ脱走兵が詐称して潜んでいる。彼らは主人のかねを奪いジプシーの女に罪をなすりつけ、スペインへ逃げようと企んでいる。当初はジプシー女に疑いがかかるが、一人のドイツ人が隣町へ行った際、誤ってぶどうの有毒な醗酵ガスで事故死することになり、発覚する。
 後半のもう一つの挿話は、娘を訪ねていった老いた父親は娘がドイツ兵と不倫しているという噂で落胆する。しかしこの実際は、家をドイツ軍に占領された娘は密かに帰ってきた夫を部屋に匿っていたのだった。この真実がわかり喜ぶ父親と一家。最後はぶどう摘みが終わり宴会になる。残っているもう一人のドイツ人は酔ってドイツ語で歌い始めるので正体がわかってしまう。
 戦争時期に作られたのでフランス愛国主義的な要素は大きい。


「トルブナヤ通りの家」

1928、ソ連、(監督)バルネット、無声映画
 モスクワの集合住宅の建物、住人は勝手にゴミ等を廊下に投げ出し公共道徳ゼロであるい。大通りではなぜかアヒルが逃げ回り、それを追いかける少女、あわや路面電車が衝突しそうになる。その時、時間は巻き戻されなぜこうなったか説明になる。
 少女は田舎からモスクワに住む叔父を訪ねてきたのだが、叔父は入れ違いに田舎に戻っていた。街をうろつき回るうちにアヒルが逃げ出したのである。衝突寸前に電車は止まる。そこへ同郷出身で車の運転手をしている若者が見つけ、住んでいる集合住宅に連れて行く。少女は強欲な主人とその妻の床屋にお手伝いで雇われる。こき使われるがまめまめしく働く少女。
 その後組合主催の演劇に出演した主人の逆鱗に触れ、くびになる。しかし同名の女性が選挙で委員に選ばれ、その少女と勘違いした集合住宅の住民達はあわてて少女をもてなそうとする。別人と知った主人はまた傲慢な態度で少女に接しようとする。最後は組合によって主人は厳しい判決を受ける。
 この主人役の男は、今度の特集の「ベッドとソファ」にも出演している。丁度ジェームス・キャグニーを背を高くしてみばえよくした感じである。

「ベッドとソファ」

1927、ソ連、(監督)ローム、無声映画

 モスクワへやってきた若い印刷工、友人の家にころがりこむ。狭いからソファが彼の住居となる。ベッドは友人夫妻のものである。友人が出張中にその若い妻と関係ができる。戻ってきた友人は事情を知り、家を出るがそのうち戻ってくる。今度はソファが彼の家となる。そのうちに妻が妊娠して・・・・。
 印刷工はバルネットの「トルブナヤ通りの家」の主人役と同じ俳優ウラジミール・フォーゲリである。

「死という名の騎士」

2004、ロシア、(監督)シャフナザーロフ、総天然色

 小説「蒼ざめた馬」を原作とする、20世紀初頭の帝政ロシア末期のテロ活動を描く。中年の主人公は、仲間たちと大公の暗殺を企てている。その計画、実行、失敗、成就等が描かれる。

「宇宙を夢見て」

2005、ロシア、(監督)ウチーチェリ、総天然色

 時代は50年代、スプートニクの打ち上げに成功したころ。港町のコックをしている主人公は、謎めいた感じのゲルマンという男に惹かれる。彼は西側への亡命を企てていたのだ。ゲルマンと主人公の交友を中心に話は進む。最後にゲルマンは亡命に失敗し、都に向かう主人公は汽車の中で若い宇宙飛行士に出会う。彼はガガーリンであった。

「モスクワは涙を信じない」

1980、ソ連、(監督)メニショフ、総天然色  

 工場で働く若い女主人公は、友達と一緒に留守を頼まれたマンションを、あたかも自分の家のように吹聴しテレビ局勤めの若い男と知り合い、関係し妊娠してしまう。男は彼女が女工であったと知り、妊娠を知っても捨ててしまう。女主人公の友人たちはうまく夫をつかまえたりする。
 それから時代が移り、女主人公は工場長まで出世している。かつてうまく結婚したと思われた友人たちは必ずしも今は良くなっていない。通勤で知り合った男は彼女に興味を抱きうちまで押しかける。既に大きくなった娘にも好感を持たれる。二人の仲がうまく進行していると、かつて女主人公を捨てた男がうちにやってくる。同席していた新しい恋人は自分が無用と思い、出て行方がわからなくなってしまう。友人たちが彼を捜し大団円となる。

「五つの夜に」

1979、ソ連、(監督)ミハルコフ、白黒映画

 落ちぶれ、長い間離れていて中年になった男女が再会し、理解し合うといった感じの話。
 中年の男は近所にやってきた女がかつての知り合いとわかり、その家を訪ねる。自分はタクシーの運転手なのにコンビナートの技師と偽りあたかも出世しているかのように言う。反骨の士であったため、不遇のままであったのだった。女の息子とも意気投合するが、女が疎んじるので家を出てしまう。最後は事情がわかる。

「私は20歳」

1962、ソ連、(監督)フツィーエフ、白黒映画

 主人公の青年が軍隊から除隊して自分のうちへ戻ってきたところから話は始まる。友人たちとの交流、恋人を見つけるなど、若い日々が描かれる。1960年代初めのソ連モスクワの生活が伺える価値もある。

「ヴォルガ、ヴォルガ」

1938、ソ連、(監督)アレクサンドロフ、白黒映画

 ソ連製の戦前のミュージカル映画。ボルガ川沿いの田舎町の産業局長にモスクワから手紙が届く。昇進かと思ってみるとモスクワで開かれる演芸大会に招待されている。街の管弦楽隊が行くことになるが、女主人公を初めとした素人集団も音楽大好きでぜひ参加したい。それでボルガ川を上って船(マーク=トウェイン風)で大会に向かう正式な一団を、女主人公達の楽隊の船が追う。
 この川を上っていく間が結構長い。女主人公と正式楽隊の指揮者(もちろん副業でやっている)は実は恋仲だがお互いに意地を張っている。女主人公が作曲した歌が川に落ち、大会でも流行する。作曲者捜しが始まり最後にわかって大団円。
 古き良き時代の話。戦後再映画化もされたそうである。