ドストエフスキーの語る日本

ここではドストエフスキーの著作に現れる日本についての言及を整理する。

ドストエフスキーが活躍した時代は、日本で言えば幕末から維新を挟んだ明治初期という、日本史でも特に注目される時期である。
また世界史的に見れば西洋列強諸国が、アジアを植民地ないしそれに準ずる扱いで支配していった時代である。日本に対しても航海の中継地として、通商の相手として、またあわよくば他のアジア諸国と同じように植民地としたい(当時は西洋諸国のお家の事情で、すなわち南北戦争や普仏戦争などで、手が回らず植民地化を免れたという説を読んだことがある。)意図でもって、かつてないほど接近してきた。
日本史とドストエフスキー
日本史の主な出来事とドストエフスキーの生涯を突き合わせてみる。

ドストエフスキーが生まれた文政4年(1821)はまだ幕末と言えず江戸時代後期である。この年、伊能忠敬が大日本沿海輿地全図を完成している。
尊敬していたプーシキンや母の死で衝撃を受けた16歳は、天保8年で大塩平八郎の乱があった年である。
天保の改革の頃は任官し、『ウジェニー・グランデ』の翻訳をしていた。
『貧しき人々』で作家としての経歴開始した頃、日本には欧米諸国からの開国要求が相次いでいた。
ペリーの浦賀来航の嘉永6年(1853)、ドストエフスキーはシベリヤで服役中であった。
安政の大獄は安政5〜6年、安政6年(1859)末にようやくペテルブルクへ戻れた。
桜田門外の変の年(安政7年/万延元年、1860)に、めっぽう評判となった『死の家の記録』を発表し始めた。
翌年(万延2年/文久元年、1861)には兄と共に雑誌「時代」を刊行開始。
『罪と罰』は慶応2年(1866)に発表。第二次長州征伐のあった年。
『白痴』は明治維新の年、慶応4年/明治元年(1868)に発表。
『悪霊』は廃藩置県のあった明治4年(1871)から翌年にかけて発表。
『未成年』は千島樺太交換条約の明治8年(1875)に発表。
『カラマーゾフ兄弟』は沖縄県設置の明治12年(1879)から発表開始。
ドストエフスキーが亡くなった明治14年(1881)は、黒田清隆による開拓使官有物払下げ事件が起こり、松方正義による松方デフレの年である。


ドストエフスキーの著作中4箇所に日本の名が出てくるようである。
『白痴』
これは誰でも知っているであろう。
第一篇の終わり頃、ナスターシャは10万ルーブリの火中投入れ騒ぎの後、ロゴージンと去る。登場人物の一人プチーツィンに言わせている。

「日本じゃ恥辱を受けた者が恥辱を与えた者のところへ行って『きさまはおれに恥をかかせた、だからおれはきさまの眼の前で自分の腹を切ってみせる』と言うそうじゃありませんか。そしてほんとに相手の眼の前で腹を切って、それで実際に仇討ちができたような気分になって、すっかり満足するらしいんですがね。世の中には奇妙な性質もあるもんですねえ、トーツキイさん!」
木村浩訳『白痴』新潮文庫、上、昭和45年、p.331

ここでは『白痴』の文脈の中での議論ではなく、ただ引用した部分のみを対象としたい。『白痴』のページを参照。
これを読んでどう思ったであろうか。
何か違和感のようなものを覚えた者がいるかもしれない。もしそうならそれは何か。
以下は武士がなくなってから150年も経つ、「切腹学」のようなものに全く無知な一現代人の理解と印象である。

なぜ武士は切腹したのか。それは責任を取る武士の作法であった。日本人の責任の感覚、について話すと脱線がひどくなるから止める。
武士が責任を取る、とは何らかの「落ち度」があったはずである。それを切腹をもってあがなう、これで責任を果たしたのみならず、賞賛を受けるのである。何しろ自死という最高の犠牲を払ったのだから。武士にとって切腹は名誉につながる。

ドストエフスキーが例えとして出しているような状況はいかなる場合に起こりうるか。他家によって自分、というより自ら仕える家は耐え難い侮辱を受けた、お家の取りつぶしにあったかもしれない。それに自分に直接の責任はないにしても、主家をこのような目に会わせたのは仕える武士として責任がある(いかにも侍の発想に見えません?)。それで相手の家の前に赴き、そこで切腹する。時代劇にでもありそうな場面である。

ドストエフスキーの言い方で違和感を覚えるとすれば「責任を取る」というところが何も考慮されていない。もちろんそれを期待する方が酷だろう。はたから見ていれば当てつけでやったようにしか見えない。それに当てつけという面もあっただろう。そうでなければわざわざ相手方に赴く必要もない。こっそり自分で腹切りすればいい。
挙げ足を取る気はないが、切腹して「実際に仇討ちができたような気分になって、すっかり満足するらしい」と言っても普通は切腹で死んでしまうのだから、満足とかの感情は生じないのでは。
『ロシア文学論』
ドストエフスキーが1861年「時代」誌上に発表した評論集である。
この冒頭部分に日本の名が出てくる。何も日本を論じているわけでない。ロシヤが西欧に理解されていない、と論じる際、引き合いに出されるだけである。
西欧にとってロシヤほど理解されていない国はない、と言ったあと、

「シナといえども、はたまた日本といえども、過去、現在、それどころか、あるいはまだまだ遠い未来においても、研究心のさかんな西欧人にとって、ロシヤほどは神秘につつまれていないだろう。筆者は誇張しているのではない。シナや日本は、第一に、ヨーロッパからはあまりに遠隔であるし、第二には、そこへ行くことが時としてきわめて困難である。しかるに、ロシヤは西欧に対してぜんぜん明けっぴろげである上に、ロシヤ人はヨーロッパ人の前で、完全にあけすけの振舞いをしている。にもかかわらず、ロシヤ人の性格は、シナ人や日本人の性格よりも、ヨーロッパ人の意識の中では、漠然としか描かれていないかもしれない。(後略)」
『ロシヤ文学について』、河出版米川訳全集第19巻、昭和46年、p.6

後年の『作家の日記』でも同じようなことを言っているが、ここでのドストエフスキーの論は、日本人の西洋への思いとなんと似ているか。
結局後進国の者は先進国を十分研究し、自分たちは理解していると思い込んでいる。それに対して先進国の連中は、遅れた国に興味がないから(あるいは自分たちの国は特殊たから)自分たちを理解していない。みんなこう思うらしいのである。
宣教師ニコライとの出会い
ニコライ(1836−1912)とは、幕末に日本にやって来て、明治一杯まで日本に正教を布教したロシヤ人宣教師である。あの神田駿河台のニコライ堂は彼の建立である。

宣教者ニコライは布教資金を集める等のため、1879〜1880年にロシヤに戻っている。そこでドストエフスキーに会った。ドストエフスキーはプーシキン記念祭で有名な演説を行なう。そのためにモスクワに来ていた際である。

「(前略)主教たちとも近づきになりたいものだ。日本にいたニコライとか、当地の副主教アレクセイなどに。みんなとても珍しい人たちだからね。(後略)」
1880年5月28日−29日午後2時、妻アンナ宛、木村浩訳新潮社版全集第23巻、p.442

「きのうの朝、アレクセイ副主教とニコライ主教(日本の)を訪ねた。この二人と近づきになれたことは実に愉快だ。一時間ほど話しこんだ(中略)二人ともぼくに胸襟を開いて語ってくれた。あなたの訪問は自分たちにとって大変な光栄であり、幸福であると言った。ぼくの著作を読んでいてくれたのだ。ということは神を守る人びとはぼくを評価してくれているのだ。アレクセイはぼくを心の底から祝福してくれ、聖餅を取り出してくれた。(後略)」
1880年6月2日−3日夜半2時、妻アンナ宛、同上、p.453

ニコライの日記(上)、岩波文庫、2011年、中村健之介編訳、446頁、1,080円
中村建之介『宣教師ニコライと明治日本』、岩波新書、1996年、249頁、680円
中村建之介『宣教者ニコライとその時代』、講談社現代新書、2011年、350頁、950円

実はこのドストエフスキーのニコライ訪問は、ニコライ側にも記録がある。
ニコライは日記をつけていた。このロシヤ帰郷あたり以降は残っている。翻訳も元は北大出版会、今では岩波文庫に上中下の三冊、中村建之介の編訳で読める。

「(前略)有名な作家のドストエフスキーが来ていて、会った。ニヒリスト(旧習否定派)たちについてかれは、遠からずしてあの連中はすっかり生まれ変わって、信仰の篤い人間になるでしょう(中略)日本については、「あれは黄色人種ですからね。キリスト教を受け入れるにあたって何か特別なことはありませんか」と聞いた。やわらかみのない、よくあるタイプの顔。目がなんだか熱っぽくかがやいている。かすれた声、咳をする(肺病のようだ)。」
1880年6月1日、日曜、モスクワ、ニコライの日記(上)、岩波文庫、2011年、中村健之介編訳、p.166

『ニコライの日記』では、上に引用したようにドストエフスキーが日本人に言及する記録があって貴重。黄色人種は当時の西洋人にとって、得体の知れない代物だったのだろう。

宣教者ニコライについては中村建之介が新書を2冊出している。『宣教師ニコライと明治日本』岩波新書、1996年とその続編、『宣教者ニコライとその時代』講談社現代新書、2011年である。 岩波新書ではニコライと日本での布教の全体像、また当時の日本の風俗がわかって興味深い。更に当時のロシヤの教会の実態など、正教には疎い我々の勉強になる。

もしドストエフスキーだけに関心があるのであれば、岩波新書は「まえがき」でここに記したような事情は書いてあるから、それで充分かもしれない。
講談社新書には第4章「文学者へのまなざし」の中に「ドストエフスキーとのすれちがい」という節もあって、色々書いてある。

ドストエフスキーの上記の妻アンナ宛の書簡では、ニコライとの会合を無邪気に喜んでいるように見える。
しかしニコライは中村によればドストエフスキーを「やわらかみのない、よくあるタイプの顔」と書いているように醒めている、と言うのである。
またドストエフスキー自身のニコライへの期待と思われること、プーシキン記念祭の評価とか、詩人プーシキンの当時の評判など新しくわかった。

『ニコライの日記』には他に、ドストエフスキーの著作に色々注文をつけた、あの出版人カトコフの名前も出てくる。本人でなく、その夫人である。
1880年4月10日の日記に出てくる。(『ニコライの日記』上、岩波文庫、2011、p.146)
カトコフ夫人はニコライに会いにやって来て、募金集めのために新聞に広告を載せてはどうかと勧めた。「あのご主人にふさわしい女性だ!」とニコライは感心している。
カトコフは一出版社主などでなく、当時の出版・雑誌界では有名人で大物だったらしい。

『未成年』の創作ノート
同ノートに日本の名が出てくる。

「「あなたはみんなをしゃぶり尽くしてしまった。それなのにみんながあなたを神のように崇めているんですからね」日本の神。」
(筑摩版小沼訳全集第19A巻、1991年、p.234~235)

この文が断片として創作ノートにある。日本の神が括弧内の文とどう関係しているのか不明だが、例えば自分を崇めている者たちをしゃぶり尽くすのか、日本の神は。もしそうならドストエフスキーがどこから持ってきたのか。
前後のメモとも関係がなさそうである。ともかくドストエフスキーの書いた文なので載せておく。


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