ドストエフスキーの謎
ここでドストエフスキーの謎とは、彼の人物や小説の謎を言うのではない。江川卓の謎解きシリーズの解説をしようというものでもない。
私が未だに理解できていない、整理がつかない問題、これを謎と呼んでいる。それは
なぜドストエフスキーは日本でこれほど人気があるのか
という謎である。
この標準的な見解があるかもしれないが、自分は知らない。ともかく自分が納得できる説明が欲しい。自分がなぜドストエフスキーにとりわけ関心があるのか、を尋ね直してみればよいように思うが、その回答さえうまく言えない。面白いと思うから、では答えにならない。その面白さを他人に説明できるように述べて、好きでもない人に好きになってもらうのは無理であるが、その意味を理解してもらえることである。
すなわち面白さの客観化である。それをドストエフスキーに関して行ない、日本での評価の高さを解明したい(もちろん自分が納得できればよい)。
これまで目にした幾つかの説明はある。それらはそういう理由もあるであろう、と思うものの、決定打に欠けるという感じである。
まず客観的なデータを幾つかみて、日本人がどれだけドストエフスキーを評価しているか、の証左としたい。
新潮社の季刊誌「考える人」2008年春号No.24で「海外の長篇小説ベスト100」の特集をしている。どのような小説がベストになっているのか。
まずこの結果を得た方法について述べる。作家、批評家、翻訳家、文学研究者、新聞記者、エッセイスト、脳科学者、哲学者、精神科医・・・等から129人を選び、年代は関係なし、各人10作を選び、点数として一位には10点、二位には9点、・・・十位には1点を与え、合計した順位による。(同誌p.50)
なお順位をつけなかった人には各作すべて1点を与えたとあるが、これおかしいんじゃない?みんな1+2+・・・+10=55点持っているわけだから、順位をつけなければ55÷10=5.5点か、あるいはせめて5点を各作に与えるべきではないか。あまりいないから順位には影響ないだろうが。
その一位から二十位までの結果が次のようである。著者名は自明であろうから省略。
- 百年の孤独
- 失われた時を求めて
- カラマーゾフの兄弟
- ドン・キホーテ
- 城
- 罪と罰
- 白鯨
- アンナ・カレーニナ
- 審判
- 悪霊
- 嵐が丘
- 戦争と平和
- ロリータ
- ユリシーズ
- 赤と黒
- 魔の山
- 異邦人
- 白痴
- レ・ミゼラブル
- ハックルベリイ・フィンの冒険
これを見ると、ベスト20以内には四大長篇すべてが入っている。しかもベスト10にドストエフスキーの3作が入っている。いかに日本人がドストエフスキーを評価しているかがわかる。この2年前から亀山郁夫の『カラマーゾフの兄弟』新訳が開始され、ブームの最中であったこともいくらか影響しているだろうが、ともかく異常ともいえる。ドストエフスキー以外ではカフカがベスト10に2作、トルストイがベスト20で2作入っている。カフカ意外と人気あるらしい。
100冊全体のリストは「海外の長篇小説ベスト100 新潮社」にある。
これと比較の意味で外国人の選んだベスト小説を以下に書く。
比較的最近の選として Top Ten: Writers Pick Their Favorite Booksがある。
これは英米の作家100人以上にアンケートを行ない、10作選んでもらい、点数は上の新潮社と同じように一位に10点、・・・十位に1点でそれの合計で求める。
20世紀の、19世紀のトップ10作などの世紀別順位も公表されているが、全時代のトップ10作は次のとおり。(2013年版)
- アンナ・カレーニナ( トルストイ)
- ボヴァリー夫人(フローベール)
- 戦争と平和(トルストイ)
- 華麗なるギャッツビー(フィッツジェラルド)
- ロリータ(ナボコフ)
- ミドル・マーチ(ジョージ・エリオット)
- ハックルベリー・フィンの冒険(マーク・トウェイン)
- ハムレット (シェイクスピア)
- チェーホフの作品
- 白鯨(メルヴィル)
上の新潮社は長篇小説が対象であるのに対し、ここではそういう制約がないため戯曲や短篇も入っている。この選出の一般性も気になるが、ともかくこういう順位もある。
日本人とかなり異なることだけは確かである。他にもベスト選はあるのでインターネットで検索してもらえれば参照できる。
もちろん、西洋人の選択が「標準的」で「正しく」、それと異なる日本人の評価がおかしい、というものでない。正しいなどは文学の評価の基準ではありえない。しかしこれが我々の評価なのである。
なぜ日本人はこうもドストエフスキー好きかを考えることは、大げさに言えば「日本人とは何か」の問題につながると思う。
以下は今思いつく理由の幾つかである。今後とも思いつけば追加、修正していきたい。
深い思想性がある。
ドストエフスキーの小説では、登場人物がいかにも深刻そうな思想を語る。
19世紀の作家の中で、例えばバルザックは情熱に憑かれた人物造型を行なったが、読んでいてもドストエフスキーのような思想性は感じられない。いやおよそ我々が読める他の小説全体をみても、ドストエフスキーほど文学の中に思想を感じさせるものがあろうか。
これがドストエフスキーの大きな魅力であり、彼を際立たせている特徴であろう。
ドストエフスキーに傾倒したことで知られる作家の埴谷雄高(明治43年〜平成9年)は『死霊』(昭和23年刊行)の自序の中で次のように言っている。
「私は、『大審問官』の作者から、文学が一つの形而上学たり得ることを学んだ」
形而上学に関心があれば、哲学書を読めばよいのではないかと思うかもしれないが、(以前、推理小説で頭を鍛えられるとかなんとか書いてあったが、数学でも勉強すればいいのではと思った)哲学と思想は異なる。哲学は真理を求める学問で、認識論とか存在論とか、思想から連想するものとは結構違う。
人生の意味とか如何に生きるべきかなどは宗教や文学の担当だろう。もちろん人生論だけが文学の目的でない。
ドストエフスキーに熱中するのは若い時期に多い。青年期に最もこのような関心があるからだろう。これがドストエフスキーの評価の大きな要因であることは間違いない。
しかしこれで話は終わらない。
なぜ「日本の」青年ないし読者だけがこう思うのか。外国だって青年期の関心や感情、考え方はそんなに違わないのではないか。文学で思想を間に合わせようとする「横着な」気がないからか。思想性だけ言っても我が国のドストエフスキー熱は解明できないのである。
キリスト教
ドストエフスキーは極めて宗教的な文学である。上に述べた思想もキリスト教の枠の中で語られる。そのためドストエフスキーとキリスト教という永遠の問題がある。
我々東洋人はキリスト教信者でない、またはキリスト教文化の風土でないので余計意識せざるを得ない。当然ながら現代の欧米人も多くは宗教を信じていない。西洋人はキリスト教に従って生きている、などと言ったら、我々日本人が禅の思想によって生きている、と言われるのと同じだ。しかし彼らにはキリスト教文化が前提としてあるので、ことさら意識する必要がないかもしれない。日本人はそうはいかない。
カラマーゾフの大審問官を論じた際にキリスト教を意識せずとも、十分ドストエフスキーは楽しめる、実際にこれまで読まれ愛好されてきたから、と書いた。しかしながらキリスト教の理解がなければドストエフスキーは一面的な理解しかできない、偏頗なものである、と言われると反論しようのない気になってくる。ともかくキリスト教はドストエフスキー好きにとって躓きの石なのである。それでは我々日本人がキリスト教を理解する、とはどういうことをすればよいのだろうか。形式的に信者になっても信じていなければ意味がなかろう。せいぜいキリスト教を勉強して知識を増やす、ぐらいか。
この話はもうこの辺で止める。前置きである。キリスト教は理解が困難な、異質な、広い意味での文化の一である。そのキリスト教がドストエフスキー文学に深く関わっている。
ここで言いたいのは、だからこそそのキリスト教がドストエフスキーをより魅力的にさせている一因ではないか、という仮説である。
身も蓋もない言い方をすればキリスト教をよくわかっていないと承知しているから、余計有り難く思えるのではなかろうか。お経も訳が分からないから有難いそうである。いわんやキリスト教をや。しかもキリスト教の中でも正教という、更に縁遠きもの、神秘性はいやが増す。
キリスト教は異国的exoticな魅力だけでない。<先進>欧米諸国の宗教であり、より高尚なものとみなされていた。仏教ほか従来の宗教よりキリスト教は進んでおり、東洋の後進国人にはその信者となることは文化的に、あるいは人間としてより望ましいこととされた。すなわち西洋人の価値観をそのまま受け入れたのである。典型的な後進国発想であり、明治以来の日本人はひたすらその考えで、きたのである。それだからこそ夜郎自大にならず近代化に成功したかもしれない。
ともかく価値が高いとみなされていたキリスト教の装いはドストエフスキーの魅力の一助になっているのではないかと思った次第。
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