ドストエフスキーは『アンナ・カレーニナ』を絶賛していたのか
ドストエフスキーは同時代のもう一人の大文豪レフ・トルストイを高く評価していた。
そのトルストイの代表作の一、『アンナ・カレーニナ』について、ドストエフスキーの賞賛が引用されることしばしばである。
例えば、今手元に河出豪華版世界文学全集第11巻『アンナ・カレーニナ』(昭和40年、中村白葉訳)がある。この箱の帯の裏に小説の宣伝が載っていて、そこには次のような記載がある。
「(前略)ドストエーフスキイをして、「芸術として完全である」といわしめた、トルストイの芸術的・思想的円熟の頂点を示す大作である。」
更にこの本の解説で桑原武夫(仏文学者、当時京大教授)は、次のように言っている。
「ドストイェフスキイは、この作品をよんで、芸術として完全だ、ヨーロッパ文学中これに匹敵しうるものはない、とまで激賞し、志賀直哉は、近代小説の教科書とまでいった。」
(同書、p.915)
引用元はどこか
一体、このドストエフスキーの評価はどこで言われているのか?
『作家の日記』である。1877年7・8月号で論じている『アンナ・カレーニナ』評の中にある。
まず我々の関心の対象である『アンナ・カレーニナ』賛のありかは、1877年7・8月第2章第3節「特殊な意味を持つ事実としての『アンナ・カレーニナ』。」である。
この節の冒頭で、ドストエフスキーが会った友人は次のように言う。
「あれは前代未聞の作品です、あれは第一級の作品です。わが国の作家の中に、これと肩を並べることのできる作家がひとりでもいるでしょうか?またヨーロッパでも――これだけのものをいったい誰が見せてくれるでしょう?この数年間、いやずっと以前にさかのぼっても、ヨーロッパのありとあらゆる文学を通じて、これと比肩できるような作品がひとつでもあったでしょうかね?」
わたし自身も全く同感であるこの断定のなかで(後略)
(『作家の日記』5、ちくま学芸文庫、小沼文彦訳(1998)、p.92)
ここに『アンナ・カレーニナ』賛が出てくるものの友人の言である。ドストエフスキーはそれを肯定しているだけである。
それでは文豪自身は自分から言っていないのか。
いやそんなことはない。この少しあとで、
「・・・『アンナ・カレーニナ』こそはちょうといいときに現れた芸術作品としては完璧なものであり、現代のヨーロッパにあってこれと比肩できるようなものはなにひとつないと言えるような作品である。」
(同上、p.96)
とある。どういう文脈か。ロシヤはヨーロッパに対して遅れている、と言われている。しかしこのような作品が出て(ドストエフスキーが称賛して止まないプーシキンには及ばないものの)ヨーロッパに対抗できる、という主張である。
つまり上の桑原の引用もドストエフスキーの言葉である。問題なし。めでたしめでたしで終わり、か。
引用されるドストエフスキーの言、これだけでは『アンナ・カレーニナ』を絶賛する目的で言ったように読める。桑原の文も、そのつもりで書いたのだろう。
しかしながらドストエフスキー好きとしてはもう少し知っておきたい。
ドストエフスキーは『アンナ・カレーニナ』を賞賛しながらも、むしろ自らの主張の前振りとして使っているように見えるからである。もちろん芸術作品としての『アンナ・カレーニナ』は上記にように優れていることを前提とした上で、主張したいことがあった。
『作家の日記』1877年7月・8月号の第2章、第3章を費やして完結したばかりの『アンナ・カレーニナ』を論じている。論じると言っても、ここでは全体を文学として芸術として対象にしているのではない。
ドストエフスキーはこの小説の主人公の一人レーヴィンの、終末辺の彼の言動、これを怒っていると言っても差し支えないくらい、批判しているのである。
周知のようにレーヴィンはトルストイの分身的な存在である。レーヴィンの悩みや思索はトルストイ自身の反映である。そのレーヴィンをドストエフスキーは攻撃する。
次のように言っている。
「(前略)当のレーヴィンという人物を、作者が描いたとおりに受け取って、わたしはやはり作者自身の人物と決して混同するものではない。わたしはある苦い戸惑いを感じながら、これを言っている。なぜならば、レーヴィンという人物に仮託して、作者が表現しているきわめて多くのものは、明らかに、芸術的に描き出された典型としての、レーヴィン個人に関するものであるにしても、これほど偉大な作家からこのような言葉を聞かされようとは、やはりなんと言っても思ってもいなかったからである!」
(同上、p.80〜81)
具体的にはレーヴィンの反戦平和主義的なところ、人類主義(こんな言葉は出てこないが)には我慢できなかった。またレーヴィンが農民の言い分に非常に感心するところなど、レーヴィンはしょせん地主であって民衆のことなどわからないと一蹴である。
反戦平和的、と言いだす前に当時のロシヤはトルコとの戦争中であった、と現在の我々は思い起こす必要がある。歴史を知らなくても『アンナ・カレーニナ』を読んだ者は最終篇でウロンスキーが出征する、くらいは覚えているだろう。また志願兵などこの戦争に関してレーヴィン等が議論する場面が出てくる。
ここで当時の背景となっている東方問題について簡単に触れたい。私は歴史をあまり知らず、もしドストエフスキーを読んでいなければ全く知らずに終わった。私のような者もいるだろうと思うから。小沼訳や米川訳の『作家の日記』には「近東問題」とあるが近東ではパレスチナ当たりの中近東を思い出してしまうから、現在使われる東方問題にした。
東方問題は長い歴史があるようだが、当面の19世紀後半について書く。当時オスマン・トルコが支配していたバルカン諸国で、独立運動や反乱が生じてトルコが鎮圧しようとする。それに対してロシヤや英仏などが介入した。
『アンナ・カレーニナ』の発表が始まった1875年にはヘルツェゴビナで反乱が起こり、他のスラブ諸国にも波及した。ロシヤは同胞というべきスラブ諸国を助けるため志願兵その他の救援活動が起こった。1877年にはロシヤはトルコに宣戦布告し露土戦争が始まった。
だから出征したり、戦争について議論とか『アンナ・カレーニナ』が発表された当時のロシヤでは、当たり前のように目にしていた出来事だったわけである。新聞は毎日戦争の報道をしていただろう。
『アンナ・カレーニナ』はそのような状況で書かれ、それを小説の中に取り込んでいる。我々にとって『アンナ・カレーニナ』は古典であるが、当時のロシヤ人にとっては自分たちが体験しつつある戦争が描かれている。そこで戦争について意見のようなものが書き込まれていたら、それは一般論でなく文字通り今やっている戦争への意見なのである。
最終篇である第八篇で、レーヴィンたちが志願兵や戦争そのものへ疑義のような意見を言っている。これにスラブ主義者で、愛国主義者のドストエフスキーが怒り心頭に発したのは当然である。もしドストエフスキーが日本語を知っていたら「この非国民めが!」と罵ったであろう。
実は志願兵等を揶揄するかのような発言がある第八篇を問題視したのはドストエフスキーだけでない。『アンナ・カレーニナ』は「ロシヤ報知」に連載されていた。その編集長であるあのカトコフ――ドストエフスキーの長篇にも色々言って改変させ、悪いイメージしかない――が掲載を拒否し、トルストイは単行本で出したのである。
「ロシヤ報知」は名門誌であり、その思想は保守的であった。その雑誌にスラブの同胞を救援する、愛国的行動と見做されていた志願兵運動をおとしめるような、発言のある最終篇の第八篇は載せるわけにはいかなかったのである。(『作家の日記』1877年7月・8月第1章第1節)
なお『アンナ・カレーニナ』の最終篇の中で、ドストエフスキーが批判している部分は一挿話に過ぎない。最後の方でレーヴィンが信仰とは何かについて悩むあたり、現代の我々にも身近に感じられるのではないか。
『アンナ・カレーニナ』の階級闘争論
これまで有名なドストエフスキーの『アンナ・カレーニナ』賛から説明を始めたので、その記載のある最終篇を論じた。ドストエフスキーは雑誌の連載につれて読んでいた。今日の我々のようにまとめて読んでいたわけでない。
上に引用した最終篇の前に、1877年2月第2章で、その際出た『アンナ・カレーニナ』第6篇を論じている。ここでドストエフスキーは、本小説を以前のトルストイ作『幼年時代』『少年時代』『戦争と平和』の繰り返しのような気がして、以前の作の方が新鮮であったと言う。(確かに例えば求婚を期待し舞踏会に臨むキティはナターシャを思い出させる)
それがこの第6篇になって印象を新たにし、登場人物は本当の人間らしくなり、高度の芸術性を備えるようになったと評価する。
ドストエフスキーが注目するのは、主人公の一人、作者の分身であるレーヴィンとその親友オブロンスキー(享楽的で自由主義者の人の好い貴族)との会話である。
レーヴィンはオブロンスキーが付き合う鉄道屋(当時の成金)を軽蔑する。投入された労働に見合わない収入は不当ではないかと。すると役所の長官であるオブロンスキーが反論する。下っ端の役人の方が自分より多く仕事をしている、しかし収入は自分の方が多い。レーヴィンも、よほど余計働いている農民よりはるかに収入を得ているのではないか。これに対し、レーヴィンは返答に詰まり、悩む。
オブロンスキーのような男は自分が不当に所得を得ていると承知しているものの、気にかけない。それに対してヨーロッパの支配層は不当と全く思っていない。歴史的に保障された権利だと。だからプロレタリアとの闘争になる。
ドストエフスキーはレーヴィンのような良心的な人物でさえ、この問題を歴史的(経済的)に解決しようとするから悩むのである、と言う。
ロシヤ的解決によるべきである。兄弟愛的に相互に理解すべきなのだ。それにはまず自制と自己克服を自ら実行に移すべきである。
レーヴィンの疑問、悩みは現代の経済学で説明できるが、そんな野暮なことを言ってもしょうがない。最終篇のレーヴィンに関しては、ドストエフスキーは感情的になり、口を極めて罵倒し尽くしているが、ここでは積極的に評価している。『アンナ・カレーニナ』に対するドストエフスキーの評価はこの1877年2月号も参照した方がいい。
手帖にあるアンナ・カレーニナ
ここで手帖とは、ドストエフスキーが執筆に先立ち、あるいは生活上、必要なメモをつけていた雑記帳である。創作に関わる部分は創作ノートとして全集で刊行されている。
創作ノート以外でつけていた分は、河出版米川訳全集では第20巻に、新潮社版全集では第27巻で刊行された。小沼訳の筑摩版に関しては、補遺として『ドストエフスキー 未公刊ノート』が出版された。これについては別ページ創作ノートの中の「手帖より」参照。
その手帖にアンナ・カレーニナに関する寸言がある。
『アンナ・カレーニナ』。人物たち。彼らは奇妙なほどおもしろくない。
新潮社版全集第27巻、p.374、『ドストエフスキー 未公刊ノート』p.86
訳文は新潮社版全集による。
妻アンナ宛書簡に現はれたる『アンナ・カレーニナ』
妻アンナはドストエフスキーにとって最も気の置けない存在であった。だからアンナ宛の手紙にはドストエフスキーの率直な意見が述べられている。
『アンナ・カレーニナ』は1875年に発表されている。この年、ドストエフスキーは『未成年』を公表した。「祖国雑記」誌上にである。これ以前の長篇は『罪と罰』以下、「ロシヤ報知」に発表してきた。『未税年』が「ロシヤ報知」でなかったのは、『アンナ・カレーニナ』が同誌に発表され、『未成年』を載せる余裕がなかったからである。
「アーニャ、ぼくはあまり評価されていないようだね。昨日《市民(グラジダニン)》を読んだところ(中略)レフ・トルストイは四十台分の長編を《ロシア報知》へ売って、一月号から掲載されるが・・・・一台五百ル−ブリの勘定で、つまり、全体で二万ルーブリだという。ぼくには二百五十ルーブリでもすぐには決めかねるのに、レフ・トルストイには五百ルーブリを待ってましたとばかりに支払うんだからね!いや、ぼくはあまりに低く評価されている。それというのも、ぼくはこの仕事で暮しをたてているからだ。」
1874年12月20日付、木村浩訳、新潮社版全集第23巻、p.194、「五百ル−ブリ」に傍点。一台とは印刷の単位で16ページ分という。
この後、『未成年』がネクラーソフ(「祖国雑記」の編集者)の主義に反したら自分を攻撃するだろう、「ロシヤ報知」に載せられないことを知っているから足元を見ている、などと憤懣やる方ない。ネクラーソフの主義とは後で触れる。
『アンナ・カレーニナ』の原稿料はドストエフスキーの倍だったらしい。
「(前略)マイコフの家に出かけた。(中略)当のマイコフはぼくをよろこんで迎えてくれたようだったが、ぼくにはすぐ相手が胸に何か含むところがあるらしいのに気づいた。ストラーホフも出てきた。どうやら、ぼくをがっかりさせまいとしているのだ。トルストイの小説についてもあまり話さなかったけれども、その口ぶりからすると、滑稽なほど感激しているみたいだった。ぼくはトルストイだって《祖国雑記》にのせたことがあるのに、どうしてぼくだけが非難されるのかということを切りだそうとしたけれども、マイコフが眉をしかめて、話の腰を折ってしまったので、ぼくもそれ以上言わなかった。」
1875年2月6日付、同上、p.198
この手紙で『アンナ・カレーニナ』に知人たちが感激しているところはわかっても、後半を意味不明と思う人がいるだろう。
『未成年』のところで話題にすべきだが、ここで書いておく。
実は「祖国雑記」は進歩派の雑誌で、「ロシヤ報知」は保守派の雑誌だった。これはそれまで「文芸春秋」に発表していた者が「世界」に載せるのは違う。
ロシヤ文学者の北垣信行によれば、
「いわば敵陣営の進歩的な雑誌にこの作品を発表したということは、現代のわれわれ日本人には想像もできないような重大なことだったのである。」
『未成年』講談社世界文学全集第44巻、北垣訳、1977年、解説、p.700
ネクラーソフの「祖国雑記」のような雑誌に載せるドストエフスキーの変節を、知人たちはなじっているらしい。
「トルストイの小説はガラスの鐘をかぶっている間だけ読んでいる。だって、ほかには暇がないんだから。小説はかなり退屈な代物で、なんとも得体がしれない。なぜみんなが有頂天になっているのか、とんと見当がつかない。」
1875年2月7日付、木村浩訳、新潮社版全集第23巻、p.201
「ガラスの鐘をかぶっている」とは当時ドストエフスキーが受けていた治療法。
「イロヴァイスキー(モスクワ大学教授)が娘を連れてきているようだ。これは例のロシア文学愛好者協会の会長をやっていた男で、アンナ・カレーニナが汽車でいくところを朗読したとき、われわれ(愛好者)にはたとえ才能があっても陰鬱な小説なんか(つまり、ぼくの作品のことだ)いらない、われわれに必要なのはトルストイ伯の書くような軽快で愉しい作品である、と大声で怒鳴ったものだ。」
1875年6月10日付、同上、p.246
このように『アンナ・カレーニナ』には発表舞台をとられる、原稿料の違いを見せつけられる、かの小説は絶賛され自分の作品はけなされる、と散々な目に会っている。ドストエフスキーにとってトルストイは冷静に評価できるライバルといった関係でない。
もちろんどこがいいかわからない、と言ってもそれが「真の」評価で、全く買っていなかったというわけでもなかろう。他人の評価で「有能だが人間として好かない」という場合がある。ドストエフスキーのトルストイ観は、同時代の競争相手であるから、後年の我々のように見られないのは確かである。
アンナ・カレーニナとカラマーゾフの邂逅
今までドストエフスキーが『アンナ・カレーニナ』を当時の状況からどう評価していたかを書いてきた。
しかしドストエフスキー好きとしては、このスラブとトルコの争いを基にした記述が、有名な小説にあることを知っているだろう。
カラマーゾフの第五篇「プロとコントラ」中の「反逆」の節である。アリョーシャに「兄さん、なんでそんな話をするんです」と言わせている、虐殺の描写である。
イワンが語る子供たちの受難の話のうち、トルコ兵が子供たちを残虐極まるやり方で殺しているところは一度読んだら忘れられない。
あの話はドストエフスキーが聞いた、スラブ民族の反乱へのトルコの弾圧の中の挿話なのである。
つまりトルストイとドストエフスキーは、このトルコへのスラブの反乱、ロシヤの支援、更に露土戦争へつながる時代に生き、それを小説に取り入れた。
『アンナ・カレーニナ』は1875年から1877年にかけて発表され、『カラマーゾフの兄弟』は1879年から発表が始まる。
この時代のロシヤの最大関心事に、浮世離れした小説を書いていたわけではないのである。
つまりこのスラブ対トルコの戦争は、ロシヤ文学、世界文学と言ってもいいが、の二大傑作をつなぐ輪なのである。
都市伝説
ドストエフスキーの『アンナ・カレーニナ』評が同書の宣伝に使われる。これは後世のやっていることで間違いではないが、歴史とはこういうものだろうと思ってしまう。
『アンナ・カレーニナ』とは関係ないが、ついでにここで書いておこう。
ドストエフスキーによる他の小説への言及としてもう一つ有名なものがある。
――われわれはみなゴーゴリの『外套』から出てきたのだ。
これはドストエフスキー好きなら、いやロシヤ文学に関心があれば誰でも知っているであろう。
米川正夫も同氏訳の全集第1巻(昭和44年)の『貧しき人々』の解説で、次のように書いている。
「ドストエーフスキイ自身も、「われわれはすべてゴーゴリの『外套』から出たのだ」といっているほどである。」
(同書p.421)
ところでこれはどこに書いてあるのだろうか。知っている人がいるだろうか。
実はこれはドストエフスキーの言ではないらしい。
ウィキペディアのゴーゴリの『外套』の注にあったので、早速調べてきた。
青山太郎『ニコライ・ゴーゴリ』(河出書房、昭和61年、601+55頁)に次の様に書かれている。
「ヴォギュエがその著『ロシア小説』(1886年刊)のドストエフスキーを論じた章で「四十年来文学の歴史に深く関わってきた一人物」の口に託した言葉――「われわれは皆ゴーゴリの『外套』から出て来たのだ」――は、のちに誤ってドストエフスキー自身のものとされ有名になった。後世がこの言葉をドストエフスキーの口に託した時、「卑小な人々」、「貧しき人々」、「虐げられた人々」に涙注ぐ人道主義文学の濫觴としての『外套』観、さらには人道主義作家としてのゴーゴリ観は、既に揺るぎないものとなっていたのである。」
(同書、p.411〜412)
青山太郎(1938〜)はロシヤ文学者、九大教授を勤めた。
以上はウィキペディアの注から出発した理解である。
実はこれと同様の情報が『21世紀ドストエフスキーがやってくる』(集英社、2007年)所収の、沼野允義「さまざまな声のカーニバル」(同書p.41〜42)にある。この本を最近まで知らなかったので、より身近であろう同書を優先できなかった。
ところでヴォギュエ、どこかで聞いたことありません?
集英社文庫のポケットマスターピース10「ドストエフスキー」(2016)の沼野允義による解説の冒頭(p.780)にヴォギュエの名が出てくる。彼はフランス人で引用にある著、『ロシア小説』でロシヤの小説を西欧に紹介し広めたのである。
いや、この人の名もっと以前どこかで聞いたような・・・
あの小林秀雄の『「罪と罰」について』(1948)である。この文章もヴォギュエの『ロシア小説』からの引用で始まる。小林はフランス語を知っていたからこのヴォギュエの著を読みドストエフスキー理解の一助としたかもしれない。
ヴォギュエについて更に補足しておく。
このフランスの外交家兼作家はドストエフスキーに会ったことがある。
1880年1月に議論したそうだ。
ドストエフスキーは、「僕らはあらゆる民族の精神に加えてロシア精神を具えているから、あなたの仰言ることは判るけれども、あなたはこちらのことは解りますまい」とはっきり言い、「すっかり取乱して、ヨーロッパ人の中でいっとう自分は偉いのだという妄想に取憑かれたロシア人」という印象を、ヴォギュエに与えた。
松浦健三編訳新潮社版全集別巻、1980年、p.456
いかにもドストエフスキーらしくて面白い。
ドストエフスキー全体のトップへ