ドストエフスキーに影響を与えたと思われる作家

どのような文学者(先行ないし同時代)が作家に影響を与えたのか。
ここで述べるのは私の理解である。
標準的な見解等参照していない。このサイトのはじめにで断ったことを繰り返したい。ただ標準的な見解があったとしてもそれほど違わないだろう。

「影響を与える」とは、ドストエフスキー自身がその作家等を言及しており、また私自身がその作家を読んでドストエフスキーとの親近性を感じた、という意味で使っている。
ドストエフスキー自身の言及とはもちろん彼が影響を受けた、などと書いてあったという意味ではない。しかし文豪自身が何か言っていなければ、その作家を読んだかどうかもわからないし。

またドストエフスキーがどこかで言っているとしても、それだけで影響を与えたかどうか不明である。
彼のシベリヤ時代、兄ミハイルに多くの書物を頼んでいて、その中にカントの純粋理性批判とヘーゲルの哲学史がある。(1854年2月22日付書簡)そもそも送ってもらったか、読んだかどうかも知らない。もし読んでいたとしてもドストエフスキーと『純粋理性批判』の関係?よくわからない。すぐ思いつくのは、カントの著は認識論で理性の認識の限界を論じているから、これは西欧の知性、合理主義の限界につながる!なんてくらいか。あまりに単純すぎる。

ここでは自分でドストエフスキーに似てると思った作家を挙げているに過ぎない。
だから影響を与えた、という言い方は不正確であろう。正直ドストエフスキー自身に、誰の影響を受けたか聞いてみなければわからない。
聖書
ドストエフスキーに影響を与えた書として、まず聖書を挙げるべきかもしれない。
しかし聖書は以下に書くサンドやシラーと同じように論じられない気がする。
サンドやシラーなどはドストエフスキーがその著作を読み、深く感銘した作家である。それに対してキリスト教は、作家にとって幼い日からその中で育った文化である。信仰である。ドストエフスキー自身が語っている聖書については次のようなものがある。

カラマーゾフ第2部第6篇「ロシヤの修道僧」第2節(b)「ゾシマ長老の人生における聖書」
本節ではゾシマ長老の回想で聖書のうち以下に述べるヨブ記の概略を初め、ヨセフと兄弟たちその他、民衆に聞かせるべき聖書内の話が挙げられている。ドストエフスキーが聖書の中でも評価しているところであろう。

「ヨブ記」
妻アンナ宛、1875年6月10日の書簡で次の様に言っている。
「ヨブ記を読んでいるけれども、ぼくはこの書に病的なほど感動している。読むのをやめて、1時間ほど部屋のなかを、ほとんど泣かんばかりになって歩き回っている。(中略)アーニャ、この書は、不思議なことだけれど、ぼくがこの世で感動した最初の書物の一つなのだ。そのころぼくはまだほんの子供だったけれど!!」
(新潮社版全集第23巻、1980年、木村浩訳、p.245)
ドストエフスキーが「ヨブ記」を愛読していたとは、いかにもと思える。

「ヨハネ福音書」
四福音書の中で、ヨハネ福音書を例の『白痴』について述べた姪ソーニャ宛書簡1868年1月1日で書いている。キリストという「測り知れぬほど限りなく美しい人物の出現は、限りない奇跡なのです(ヨハネ福音書自体がこの意味なのです。彼は美しいものの具現化にのみ、その出現にのみ、奇跡のすべてを見いだすのです)」
(新潮社版全集第21巻、1979年、原卓也訳、p.146)

「ヨハネの黙示録」
聖書の終わりにある黙示録は終末論というか世の終わりの描写である。聖書全体の中でもその幻想的で謎に満ちた、壮麗な絵巻は読む者に異様な印象を与える。現代の特撮技術で映像化してもらいたいと思うくらいである。
『白痴』の第3篇第4節で鉄道整備を初め近代化を黙示録の記述に例え、議論している。また『悪霊』の「スタヴローギンの告白」で黙示録にある七つの教会への書き送りのうち、ラオディキア教会のそれをチホンが暗唱する。カラマーゾフの「大審問官」では黙示録からの引用が多い。

あまりドストエフスキー論を読んでいないので、キリスト教との関連書は良く知らない。
これまで読んだ限られた本の中では吉村善夫『ドストエフスキイ 近代精神克服の記録』新教出版社、1965年は感心した。本書はドストエフスキーの著作の中のキリスト教部分についての知識を与える本でなく、キリスト教の立場からするドストエフスキー論である。本書は最初は1953年に出て、この1965年版は漢字仮名遣いを現代風に改めて出したとある。熱いドストエフスキー論である。昔なので今より新鮮にドストエフスキーに接していた時代だからか。現在では古い本であり、このような立場からの新しいドストエフスキー論があっても良さそうに思える。著者は1910年生まれで1993年に逝去している模様。
ジョルジュ・サンド
ドストエフスキーが自分で影響を受けたなどと書いてはいないと最初に述べた。その例外がジョルジュ・サンド(1804~1876)である。ドストエフスキーはサンドの影響を語っているのである。

『作家の日記』1876年6月号第1章で、ジョルジュ・サンドが同年亡くなったので、サンドについて述べている。
「(サンドの)死去の知らせを読んだだけで、この人の名前が私の生涯においていかなる意義を持っていたかということがわかった。――その昔、この詩人はどれほどの感激と崇拝とを私から奪い、どれほどの喜びと仕合わせを私に与えてくれたであろうか!私はこの言葉の一語一語を臆せず記す。なぜならそれはことごとく文字通りに本当だったからである。この人は完全にわれわれの(まさにわれわれの)同時代人の一人である。」(括弧内のわれわれのに傍点)
(『作家の日記』II、新潮社版全集第18巻、p.11、川端香男里訳)

続いてサンドのロシヤへの紹介のされ方を述べ、
「思うに、彼女の中編『ウスコック人』〔1837〕――彼女の最も魅惑的な初期作品のひとつ――を私が初めて読んだのは16歳ぐらいの時だった。読んだ後、一晩中熱にうかされていたのを覚えている。」(中略)「ヨーロッパ中にその名をとどろかせた新しい作家の一団(プレイヤッド)の中で、ジョルジュ・サンドはわが国においてずっとほとんど第一人者の位置を占めたと言えると思う。」
(同上、p.16)
この後、比較でディケンズ、バルザックの名を挙げる。その後は、サンド登場までのヨーロッパの思想状況を述べる。サンドは女ということで言われたような、単なる女性の権利の宣伝に専念していたのではない。もっと普遍的な、人類の精神的渇望、完成と純潔への志向こそがその理想だった。登場人物は精神的に女王のように誇り高い。
ドストエフスキーがここで挙げているサンドの作品は、上の『ウスコック人』の他、『アルディニ』『ジャンヌ』『侯爵夫人』である。このうち『ジャンヌ』しか翻訳が出ていないようだ。(藤原書店、2006年)

『ジャンヌ』Jeanne, 1844の同名の女主人公は田舎に住む少女である。普通の意味では無知で迷信深く、キリスト教と土着の古代からの教えの区別もない。無垢であり心の純真さは貴族の男達をジャンヌの出自が分かっても、引き付ける。あまりに魅力的な娘ゆえに当然というか、悲劇が待ち受けている。
真に美しい娘が描かれているといっていい作品である。

なお『スピリディオン』Spiridion, 1839はここの『作家の日記』では言及されていないが、カラマーゾフとの関連が言われる作品で、次の様な内容である。
18世紀のイタリア、ベネディクト修道院が舞台である。若い修道士アンジェロは修道院内で不遇な目にあっていた。老修道士アレクシに導かれ、二人の会話、というかアレクシの昔語りが小説の大きな部分を占める。修道院の創始者スピリディオンの残した真理を見つけようとする。
あまり例のない宗教小説、神秘小説といった内容である。このアレクシとアンジェロの関係が、ゾシマとアリョーシャのそれを思い出す。アレクシがアンジェロに言う次の言葉は既読感がある。
「修道院を去って実社会に戻る用意をしなさい。」(大野一道訳、藤原書店、2004年、p.301)
カラマーゾフの読者には一読を勧めたい。
シラー
シラー(1759〜1805)は文豪が少年時代から熱中した詩人である。カラマーゾフを読んだ人はフョードルが息子をシラーの『群盗』の登場人物になぞらえ、ドミートリイがアリョーシャにシラーの詩を語ることを覚えているだろう。

ゲーテとシラーはドイツ古典文学の最高峰と並び称せられる。いつも思うのはロシヤ文学のトルストイとドストエフスキーの関係と同じでないか。
ゲーテとトルストイは古典的であり、調和的、完成度が高い。シラーとドストエフスキーはロマン的、情熱的、理想主義的である。
上に加えて、青年の血のたぎるような、自由奔放、シラーの戯曲を読むと使いたくなる形容詞である。ドストエフスキーが影響を受けたのも、むべなるかなである。
実はトーマス・マンがその著『ゲーテとトルストイ』(1922)で、この両文豪を論じる際、対比でシラーとドストエフスキーについても若干触れている。比較的最近知った。その一部を抜き書きすると

「ゲーテの「深い静かな凝視」、彼の正確で感覚的な想像力や、彼の筆によって創造された人間の存在の現実性などが、シラーの観念的な幻像や、彼の創造した人間の修辞学的な行動主義に対する関係は、トルストイの叙事詩の力強い感覚性が、ドストエフスキーの病的に恍惚とした夢と魂の世界に対する関係と非常に近似している、というよりはむしろ、まったく同じものであります。」(岩波文庫、山崎章甫・高橋重臣訳、岩波文庫、1992、p.72)

とある。なお蛇足だがマンの『ワイマルのロッテ』を読んで、ゲーテの描き方に違和感を持った読者は、本書を読んで納得するところがあるかもしれない。 マンのような文豪もこう言っていると、虎の威を借りる何とかのつもりで書いておく。
ディケンズ
次にディケンズ(1812〜1870)を取り上げたい。ずばり言おう、私見によればドストエフスキーに最も影響を与えた作家はディケンズである。
まず自分自身がディケンズ好きであることを断っておく。そのため偏りがあるかもしれない。いやあるだろう。
ドストエフスキーを読んでいると、ディケンズの影響ないし類似性がありありと感じられる。

初期の人道主義的と普通言われるような作品群ではその類似性が特にわかりやすい。
『虐げられた人々』(1861)のネルリは『骨董店』(1840)のネル、人となりは異なるものの、名前を同じようにしている。
『ステパンチコヴォ村の住人』(1859)を読んでいる時は、これはディケンズそのものではないかと思った。この小説を好きだという丸谷才一は英文学者のくせに、その論でディケンズに触れていないのは自分にとっては不思議に感じるくらいである。もちろん丸谷が取り上げなくても少しもおかしくない。
初期の作品だけでない。代表作の一『悪霊』(1871〜2)で物語終末近く、ステパン氏が旅に出る挿話。病気になって婦人による介護やワルワーラ夫人の登場。あまりにディケンズ的挿話で驚く。
(例示に関しては後に追加する)

ドストエフスキーの小説と言えばまず深い思想性というイメージがある。しかし初期に限らず同時に感傷主義(sentimentalism)が一貫して覆っている。普通は思想云々が正面に出てくるので、また感傷主義という言い方自体、褒め言葉と思われていないから使われない。むしろドストエフスキーにあまり好意的でない批評で欠点として使われる。
感傷主義に悪い意味を持たせなければ、ドストエフスキーの大きな特徴と言っていいだろう。トルストイには決して感じられない。
この感傷主義の側面は全くディケンズと同じである。ディケンズと言えば専門家はどういうか知らないが、感傷主義は彼の特徴としてまず思いつく。後期のより社会性の強い作品ではそれほど前面に出ていないものがあるが。

もう一つディケンズとの共通性は探偵小説、犯罪小説ということである。探偵小説的な要素が大きいところは後期ドストエフスキーの大きな特徴である。ディケンズも同様である。評価の高い『荒涼館』(1852〜53)からそうである。また『バーナビー・ラッジ』(1841)はポーが書かなかった推理小説の基本トリックが使われている。絶筆となった『エドウィン・ドルードの謎』(1870)は推理小説そのものである。『辛いご時世』Hard Times(1854)にも犯罪が出てきた。
そうだ!『大いなる遺産』(1860〜61)も全体の枠が謎になっている。
このように主要な長篇小説で、探偵小説的な要素が大きい、探偵小説としても読めるという意味でドストエフスキーとディケンズは共通している。

ドストエフスキーはディケンズに言及することしばしばである。幾つか例を挙げたい。
今手元にある『作家の日記』1873年の第9章でロシヤの画家を論じている箇所で、
「わが国の風俗画はまだゴーゴリの域までそしてディケンズの域まで成長していないからである。」
(『作家の日記』1、ちくま文庫、p.223)
と言う。絵画と文学は別だが優れているかどうかの話である。

また子供に読ませる書籍の推薦図書としてロシヤの古典作家を挙げた後、
「ウォルター・スコットやディケンズを翻訳で読ませるといいでしょう。」
(新潮社版ドストエフスキー全集第21巻、書簡集、p.438)
と言っている。
(ディケンズの言及についても後に追加する)

このようにディケンズとの親近性は自分には明らかである。
しかしながら専門家によっては研究されているのだろうが、自分が目にする、すなわち翻訳本の解説やインターネットでの論を一瞥すると――自分が読む作家論の類はその程度である、あまりディケンズに触れられていない。
自分が思うほどディケンズとの親近性を感じないというのもあるかもしれないが、その前にどれだけディケンズの長篇小説が読まれているかと思ってしまう。
あまり読まれていないとすれば、それは人気がないからである。

あんなにドストエフスキーは人気があるのに、ディケンズはそれほどでもない。
ドストエフスキーの全集は3種もあり全作品を読める。それに対してディケンズの全集は出ていない。翻訳が多くて、作家によっては母国では読めない全集も出ている国なのに。
長篇小説でさえ全部翻訳が完了したのは比較的最近である。
その理由を繰り返すと我が国の読者はあまりディケンズを好んでいないから、となる。長篇小説の本邦初訳でさえ、品切れで入手が難しいものがある。売れないものを出版社が出すわけはない。

文学好きでディケンズの名を知らない者はない。ただ英文学者の小池滋が言っていたように、「「イギリス最大の文豪」というような、およそ空虚なレッテルの文句だけで広く知られ、その作品のダイジェスト物語、映画化、テレビ化、ミュージカル化によって、筋書きだけは親しくなりながら、その実体はあまり知られていないという不幸を背負わされた」作家である。引用は『リトル・ドリット』I、集英社世界文学全集第33巻(1980)、p.434であるが、小池はどの作品の解説でも同じことを言っている。

なぜディケンズはあまり読まれないか。19世紀の典型的な長篇小説群で、現代の読者には長過ぎる。また正直言って読みにくいと思う。昔は翻訳がなかなかなく、それなのに作家論は多く出ていた(ここまで書いてきて、なぜ自分が作家論を好きでないか、その理由の一半はこのディケンズ体験にあるとわかった)。ディケンズは、言語は英語なのでなんとか読める。ところが原文も読みにくいのである。訳文でも読み易いと思われない原因の一つはこのせいだろう。大江健三郎の『キルプの軍団』を読んで、自分と同じような登場人物が出てきたのには驚いた。

ディケンズを読んでると、思うのは「凍りついたドストエフスキー」という感じである。ドストエフスキーは熱い、それに対してディケンズは冷たいのである。ドストエフスキーの登場人物は、現実性はともかく、生き生きしている。ディケンズが優れた人物造形をしながら張子の虎のようだと揶揄されるのはわかる。
またドストエフスキーの思想性といったものはディケンズにない。正義感はわかるが感傷主義によって通俗小説みたいになっている。
ここはディケンズのサイトでないので(それにしては随分書いたが)、ドストエフスキーがなぜあれほど読まれているかが問題である。それにディケンズとの対比が少しは寄与するかもしれない。
バルザック
ドストエフスキーに影響を与えた作家としてバルザック(1799~1850)に触れずにはいかない。
当然挙げられる作家になっている。ただし自分としては、それほどかと思ってしまうのである。理由は上に書いた本ページの基準である。

まずドストエフスキー自身があまりバルザックに触れていないのである。思想主張の場である『作家の日記』の中で、バルザックには一箇所しか言及していない。ジョルジュ・サンドの死に際して、サンドの出現がいかにロシヤに影響を与えたかとの記述で、引き合いに出されているところである。
サンドに比べれば、ディケンズさえ一歩譲った、バルザックは「彼女より前に現われたが、しかし1830年代に『ウジェニー・グランデ』や『ゴリオ爺さん』のような作品を出したバルザックについては今さら言うまい。」(新潮社版全集第18巻『作家の日記』II、1876年6月第1章第2節、川端香男里訳、1980年、p.16)とある。
この後、ベリンスキーが仏文学上のバルザックの意義を見落としていたのは不公平である、と述べている。

もう一つは、バルザックを読んでいてもドストエフスキーとの類似性をあまり感じられないからである。周知のようにバルザックは情熱に憑かれた人物造形を数多く行なった。名声、出世、恋愛、政治信条、学問の真理などに狂奔するとも言える人物たちである。19世紀前半のフランスが舞台で、当時の社会を反映している。ドストエフスキーは、より個人の内面、意識を問題にした小説を書いている。
異なっている一つの要因は、フランスとロシヤの社会、経済状況の違いであろう(フランスの方が「進んで」いる)。バルザックの小説を読んでいると、貴族支配の社会で新興ブルジョワも出てくる。

例えば『幻滅』『浮かれ女盛衰記』に出てくる美青年リュシアンは、貴族を称するため(元々、母は貴族の出)、貴族の娘との結婚が必要である。その資金をリュシアンの愛人に入れ揚げているユダヤ人の銀行家から搾り取ろうと、リュシアンの背後にいる悪人(ヴォートラン)は画策する。貴族にならなければ相手にされない、上流階級になれないのである。その資金をブルジョワから得ようとする。
フランスは革命で王侯貴族の首をみんな斬ってしまったかと、歴史に疎い自分は以前そう理解していた。しかしながら19世紀以降も何度も革命騒ぎを起こしているものの、普仏戦争までは基本的に王政である。支配階級は貴族であった。フランスの社会が貴族支配からブルジョワに移る様は、バルザックから百年後のプルーストの『失われた時を求めて』の主題(の一つ)である。

バルザックは経済取引を多く小説に書き、また当時の仏の法律を巡る話もある。いずれもドストエフスキーとはかなり離れた内容である。

ドストエフスキーが作家出発にあたって、『ウジェニー・グランデ』を翻訳したではないかと言われるだろう。1843年(22歳)に翻訳し、1844年に雑誌に掲載された。約三分の一に削られたそうである。脱線だが今ロシヤで刊行中のドストエフスキー全集には、ドストエフスキー訳の『ウジェニー・グランデ』が収録されるそうである。将来、この全集を邦訳する際、どうするのだろうか。
なぜバルザックの翻訳を思い立ったか。理由の一端として、1843年のバルザックのロシヤ訪問、滞在があったようだ。同年7月から10月までバルザックは愛人で後援者のハンスカ夫人(ウクライナの裕福な夫人、未亡人となり最後はバルザックと結婚しバルザックの負債の清算をした)に会うためロシヤにいた。
「ドストエフスキーは恐らくこの大作家バルザックを見ており、翻訳を思いたったものと思われる。」(新潮社版全集別巻、年譜、1980年、p.52)とグロスマンは推測する。時局便乗翻訳とも言えるが、出す以上は売れなくてはいけない。この時バルザックはうってつけだった。

勝田吉太郎(政治思想史家、元京大教授)はその著『ドストエフスキー』(潮新書、昭和43年)で「バルザック――ドストエフスキーが影響を受けたほとんど唯一の作家であり、(以下略)」(p.18)と述べており、正直驚いた。どこのどういうところか聞きたく思った。
バルザックもドストエフスキーも19世紀(に限らず)を代表する長篇小説家であり、優れた長篇小説を多くものした、そういう類似だけで十分ではないかと言われそうである。

最後に多数意見に沿う見解を引いておく。
モチューリスキー『評伝ドストエフスキー』、筑摩書房、2000年、p.26~27に概略次の様にある。
ゴリオ爺さんは惨めな目に会う憐れな人物である。ドストエフスキー小説中の貧しい人々はその血を引いている。ロマンチスト・ドストエフスキーは『ウジェニー・グランデ』の作者の作品はあらゆるキリスト教的芸術の最高峰のように思われた。ドストエフスキーはバルザックから長篇技法を学び、その文体を取り入れた。
(補遺)
ここであまりバルザックに似ているとは思わないという自分の意見を述べたが、やはりドストエフスキーはバルザックを高く評価しているとの記録がある。

ドストエフスキーが16歳の時、兄ミハイルにあてた書簡でバルザックをほとんど読んだといい、次の様に言っている。
「バルザックは偉大です!彼の描いた諸性格は――宇宙的頭脳の所産です!時代精神ではなく、数千年という歳月がその発酵によって一人の人間の魂の中にこのような結末を準備したのです。」(1838年8月9日、新潮社版全集第20巻、1979年、工藤精一郎訳、p.36)

またアンナ夫人の『回想のドストエフスキー』の「外国放浪」の章で次の様にある。
「彼はバルザックとジョルジュ・サンドを高く買っていたが、(中略)夫はそのすぐれた点をいろいろ説明してくれた。つい最近起こったことでもすぐ忘れてしまう夫が、この好きな二人の作家の小説の筋や主人公の名まえをはっきりおぼえているのにはびっくりさせられた。夫が「従妹ベット」、その第一部「貧しい一族」を特に高く買っていたことをわたしはおぼえている。」
(『回想のドストエフスキー』上、筑摩叢書、1973年、松下裕訳、p.195)


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